大学に通学と通信の両方の課程があると、それら二つが重なる部分を通じて、同じ教育内容が提供できるか否かに教員と学生の関心が自ずと集まります。二つの課程が重なる部分となれば、その代表はスクーリング。それを中心に通信教育について考えてみましょう。
大学基準協会が1947年12月に決定した「大学通信教育基準」に基づいて大学の通信教育が始まりますが、慶應義塾は大学の通信教育課程を翌年1948年にスタートさせます。1947年は私の生まれた年ですから、ほぼ同じ年齢です。慶應義塾の通信課程は私のように老いることなく、変貌を続けています。大学通学課程と併設されている通信課程であるからこそ、通学課程にできるだけ近い教育をするということにこだわり、そのために通信教育部は随分と痩せ我慢をしてきたというのが私の実感です。通学課程との比較でしか通信課程を具体的に考えることができないことが自閉症児のこだわりや執着のように存在し、私にはそれがスクーリングを通じて「痩せ我慢」としてあちこちに表出してきたように思えてなりません。
私が若い頃に強く感じたのは夏期スクーリングでの肉体的な痩せ我慢でした。まだ冷房などなく、扇風機が空しく回る大教室は満席で、全員が暑さを我慢しながら授業が行われていました。私が学生の頃のスクーリングの様子は三好京三の『キャンパスの雨』(文藝春秋、 1979)に描かれています。三好が文学部(通信教育課程)に教員免許取得のために入学したのは昭和40年。小説にはその間のスクーリングでの出来事などが描かれています。私が文学部の通学課程に入学したのが昭和41年ですから、キャンパスですれ違っていたかも知れません。でも、通学課程の方は学園紛争に突入していて、コロナ禍に似た状況で、通学課程の授業の多くが行われていなかったのに対し、通信課程ではスクーリングが行われ続けていました。
戦後の大学通信教育は教員資格問題と結びついていました。1949年に施行された教育職員免許法施行法によって大学以外の学校の教員は免許状が必要になり、1級を取得するには大学卒業が条件とされたために、旧制師範学校等の卒業者は所要単位を取得する必要がありました。教壇に立つ教師が授業に支障が出ないように教員免許を取得するために通信教育が利用されたのです。通信教育を実施した国立大学は52校ですが、無資格教員問題が解消するのに伴い、通信教育を維持する痩せ我慢が国立大学にはなかったようで、1961年度末にはあっさり廃止されてしまいます。
私が通信教育部の仕事に関わったのは2005年から2011年の6年間で、スクーリングの充実に話を限れば、E-スクーリング(2008年)、地方スクーリング(2009年、慶應大阪リバーサイドキャンパス)の導入が思い出されます。今から見れば、E-スクーリングは対面授業であるスクーリングの通信授業化であり、コロナ禍での通学課程の遠隔授業に幾つかの点で似ています。当時湘南藤沢キャンパスで既に行われていた方式は、実際の授業を撮影し、その動画を配信し、学生がそれを学習するものでした。それを利用し、スクーリングを通信化して実施したのです。E-スクーリングを通じて、通信課程を通学課程に近づける(あるいは通学課程を通信課程に近づける)ことがある程度は成功したと思っています。
通学課程しか知らない教員のスクーリングへのこだわりと、教員と通信生の我慢(知る我慢、習う我慢、教える我慢)は、遥か以前の福澤諭吉の「国家は私情であり、痩我慢も私情である。私情の痩我慢なしに、私情の国家はない」という考えに似ていなくもありません。真夏の暑さの中のスクーリングでの身体的我慢、E-スクーリングと地方スクーリングの精神的我慢などは戦後教育の民主化のための我慢でもありました。
私たちの教育の多くの部分では言葉が使われています。言語は人間に特徴的なコミュニケーションの装置であり、人間の最も人間らしい特徴です。対面授業であれ、通信授業であれ、いずれも言葉を介した授業であり、言語を介した経験です。通信と通学の課程は言語を利用した教育という点では大きな違いはありません。テキストは言葉を使った教材であり、授業は言葉を使った知識の伝達、コミュニケーションです。
対面授業と通信授業の間の差がなくなれば、通学課程と通信課程の差も同じようになくなります。かつてこれには痩せ我慢が必要でした。教員がよく知る通学課程を基準に通信課程を捉え、通学課程の教育に近づけようとしました。それが少なくとも私自身が通信教育で考えたことでした。
通信と通学の重なりがより増すことになったのがコロナ禍でした。言葉が教育に不可欠なのは自明のことですが、書き言葉だけでなく、話し言葉と日常生活の状景を含んだ教材が重要になってきました。それが対面授業のエッセンスで、教師が言葉を使って教えることを疑似的に再現する技術が通信授業に取り入れられてきました。本物の学習と擬似的な学習の差は次第になくなり、今やその差はごく僅かです。コロナ禍はその差をさらに少なくしました。限りなく通学課程に近い擬似通学課程が通信課程だと考えられます。そして、それが可能になるのは日常言語による対面授業の再現、模倣による擬似的な学習体験です。
言葉に依存した教育は言語による教育ですから、教育はつまるところ通信教育です。対面教育も言語を直接に使った教育であり、言語に依存した教育という点では通学も通信も変わりません。「人が人をつくる」ことが対面だけでなく、通信でも当たり前になり、今や少しは我慢が必要でも、痩せ我慢するほどではない時代になっています。
生成AIによって通学と通信の違いは少なくなります。対面と通信の溝は信頼できるAIによって埋まり、私がしたような痩せ我慢も不要になる筈です。それは老人には眩しい程の教育の未来に見えますが、きっと新たな痩せ我慢が生まれてくることでしょう。