入学式や卒業式:寸評

 朝エレベーターの中で新一年生に偶然会ったのだが、眩しい程の晴れ姿で、今後入学する予定の全くない私にはエレベーター内の情況は稀も稀なる偶然空間だった。今年の地元の小中学校の入学式は桜咲く入学式となり、平日にも関わらず、新入児の手を引く父親の姿が目立った。平成から令和へと時代は変わったが、昭和と違うのは入学式や卒業式に家族が多く出席すること。これは大学の入学式、卒業式も同様で、大学院の入学式や修了式にまで家族が一緒に出席するのが普通になっている。父母と記念撮影する院生の姿はかつてなら異様な光景だったのだが、今では当たり前のこと。そのためか、大きな大学では入学式や卒業式を二部制にしないと家族を収容できなくなって久しい。

 私のいた大学では卒業式の後で、専攻ごとに教室に分かれて学位記(いわゆる卒業証書)や卒業証明書を手渡ししていたが、かつては卒業生の半分ほども教室に来なかった。それが定年近くなると、ほぼ全員が晴れ着姿でやってくる。私自身、卒業式には出ず、卒業証書だけ受け取りに行った記憶がある。専攻のスタッフが7名、出席する卒業生が5名などという年がざらだったが、近年は卒業生のほぼ全員、25名ほどが教室に集まり、廊下には家族が詰めかけ、実に賑やかである。50歳を越えた、若くない教員たちにはとても不思議な光景なのである。

 入学式も卒業式も単なる式に過ぎないが、それらを通じて教育の姿がわかるような行事、出来事であり、その学校の現在を目撃し、実感できる格好の機会になっている。学校だけでなく、それを取り巻く世相まで反映してしまう入学式や卒業式は社会の中の現実を示すバロメーターとなっている。だが、式の目的や内実となると古色蒼然としたままで、問題の国会議員でも知事でも、それなりの祝辞を述べることが許されるのである。