ベニバナトチノキの花

 エゴノキクスノキネムノキなどと同じく、トチノキはトチではない。また、「栃木」はトチノキではなく「トチギ」。栃木市の神明宮の屋根にある「千木(ちぎ)」と呼ばれる柱が十に見えたため「十千木(とおちぎ)」と呼ばれた、あるいは、その字のとおり、トチノキ(栃の木)が多く生えていたため、「栃木」と呼ばれたと説明されても混乱するだけ。そのうえ、トチノキの実は「栃の実」で、その実で作られるのは「栃餅」。栃餅は縄文時代の遺跡からも化石が発見されている。だが、「トチノキの実」でも「トチノキ餅」でもない。なんともヤヤコシイ。

 こんな難癖はさておき、ベニバナトチノキアカバトチノキセイヨウトチノキの種間雑種。つまり、二つの交配で作出された園芸種。その花が咲き出している(画像)。トチノキは大きな葉が目立ち、栃の実(栃餅の原料)がつく大木なのだが、私のような世代だと「マロニエセイヨウトチノキ)」を連想する人が多いかも知れない。マロニエはパリの街路樹として有名だが、サルトルの『嘔吐』の肝心の部分に登場する。主人公のロカンタンは30歳の独身学者。そのロカンタンが自分の中で起こっている変化に気づく。公園のベンチに座って眼前のマロニエの根を見ていたとき、激しい嘔吐に襲われる。それが「ものがあるということ自体」がおこす嘔吐であったことに気づく。この嘔吐がロカンタンに「実存」の啓示を閃かせたのである。サルトル はこれを「実存は本質に先立つ」と表現したのだが、この小説を通じて実存主義は熱狂的な支持を集めることになった。
*『嘔吐』の該当箇所の一文:La racine du marronnier s’enfonçait dans la terre, juste audessous de mon banc.(マロニエの根は、ちょうど私の腰掛けていたベンチの真下の大地に、深くつき刺さっていた。)

 私が偶然に『嘔吐』を手にしたのは故郷の本屋で、それが私のサルトルとの最初の出会いだった。『嘔吐』は後で私が入学した文学部の仏文学専攻の白井浩司先生の訳で、塾長だった佐藤朔先生も実存主義文学を紹介、翻訳しておられ、来日したサルトルの講演を三田の大教室で聞いたのを憶えている。その時、私の関心は既に実存哲学にはなかった。
 サルトルを知り、実存主義を知り、戦争体験のないことを実感し、…、結局、マロニエがどんな木かを見過ごしてきたことを知ったのはいつだったのか。今の私はマロニエの根を見ても吐き気などせず、実存も本質も概念に過ぎないと思っている。

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