西脇順三郎とふるさと

 西脇順三郎は1894年、新潟県小千谷に生れました。1911年中学を卒業し、画家を志し上京。藤島武二を訪問、内弟子となります。1912年慶應義塾大学に入学、1917年卒業論文「純粋経済学」を全文ラテン語で書きます。1920年慶應義塾大学予科教員に推され、この頃から文章を執筆し始めます。上田敏の『海潮音』の雅文調、美文体に激しく反撥し、萩原朔太郎の『月に吠える』に大きな衝撃を受けます。順三郎が朔太郎に出会ったことは、近代詩、現代詩を語る上で、不可欠の出来事で、朔太郎の『月に吠える』(1917)と順三郎の『Ambarvalia』(1933)は、大正、昭和期を代表する詩作となります。

 1922年慶應義塾留学生となって英語英文学、文芸批評、言語学研究のため渡英。1925年に帰国し、26年慶應文学部教授となり、古代中世英語英文学、英文学史言語学概論を講義し、1929年には日本英文学会第1回大会で ‘English Classicism’ と題して英語で講演し、英文学者としても表舞台に立ちます。

 『Ambarvalia』以後は詩集を出さず、戦火がひどくなると故郷の小千谷疎開し、そこで絵を描き、南画の研究などを行い、『旅人かへらず』の構想を抱きます(小千谷市立図書館には順三郎寄贈の記念室、記念画廊があります)。終戦後、再び上京し、詩作を始め、「旅人は待てよ/このかすかな泉に/……」で始まる東洋的幽玄漂う長篇詩が1947年刊の『旅人かへらず』でした。この詩集には自然への永遠の郷愁が詠われています。

 その「はしがき 幻影の人と女」を引用してみましょう。

 

 自分を分解してみると、自分の中には、理知の世界、情念の世界、感覺の世界、肉體の世界がある。これ等は大體理知の世界と自然の世界の二つに分けられる。

 次に自分の中に種々の人間がひそんでゐる。先づ近代人と原始人がゐる。前者は近代の科學哲學宗教文藝によつて表現されてゐる。また後者は原始文化研究、原始人の心理研究、民俗學等に表現されてゐる。

 ところが自分の中にもう一人の人間がひそむ。これは生命の神秘、宇宙永劫の神秘に属するものか、通常の理知や情念では解決の出來ない割り切れない人間がゐる。

 これを自分は「幻影の人」と呼びまた永劫の旅人とも考へる。

 この「幻影の人」以前の人間の奇蹟的に殘つてゐる追憶であらう。永劫の世界により近い人間の思ひ出であらう。

 永劫といふ言葉を使ふ自分の意味は、從來の如く無とか消滅に反對する憧憬でなく、寧ろ必然的に無とか消滅を認める永遠の思念を意味する。

 路ばたに結ぶ草の實に無限な思ひ出の如きものを感じさせるものは、自分の中にひそむこの「幻影の人」のしわざと思はれる。

 次に自分の中にある自然界の方面では女と男の人間がゐる。自然界としての人間の存在の目的は人間の種の存續である。隨つてめしべは女であり、種を育てる果實も女であるから、この意味で人間の自然界では女が中心であるべきである。男は單にをしべであり、蜂であり、戀風にすぎない。この意味での女は「幻影の人」に男より近い關係を示してゐる。

 これ等の説は「超人」や「女の機關説」に正反對なものとなる。

 この詩集はさうした「幻影の人」、さうした女の立場から集めた生命の記錄である。

 

  昭和二十二年四月

 

                                  西脇順三郎

 

 「ふるさと」と「幻影の人」とが老人の私の記憶の中で重なります。その私は昭和二十二年十二月に同じ越後で生まれました。ふるさととは人の特性を巧みに利用した自然の悪だくみのようなもので、それが人間の本性をつくる母親になっているようです。子供時代の記憶は頑固で、しつこく、残虐で、それゆえ、私のふるさとの根源にあるのです。