越後の良寛

 越後には詩人が多い。会津八一も相馬御風も、そして西脇順三郎も越後生まれの詩人。越後出身でも、その文学が越後的、越後風などと言うことはない。彼らが求めた詩や歌の精神は人間の生存や自然の姿に根ざした普遍的なもの。越後は彼らの文学の契機の一つに過ぎない。
 良寛は1758年越後出雲崎の庄屋の長男に生まれ、18歳で出家、備中玉島の円通寺で参禅修行し、印可を受けた。全国行脚の後、故郷の地で草庵に身を寄せ、自適の生活を送る。和歌、漢詩、書に優れた作品を残す。良寛は「本来無一物」という禅の教えに徹し、行動も自由自在、子供たちと遊ぶ無邪気さをもっていた。良寛は厳しい禅の修行をした禅僧である一方、浄土教にも深い共感と理解を示している。
良寛に 辞世あるかと 人問わば 南無阿弥陀仏と 言ふと答えよ
草の庵(いお)に 寝ても覚めても 申すこと 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏
 良寛の辞世の句は二つ挙げられている。
散る桜 残る桜も 散る桜
うらを見せ おもてを見せて 散るもみぢ
芭蕉の友人であった谷木因(ぼくいん)に「裏ちりつ表を散りつ紅葉かな」という句があり、良寛の「うらを見せ……」の句はこの木因の句を踏まえて詠まれたものである。)
 融通無碍で、自由な良寛は酒を嗜み、乞食で山を下りる時は懐に手まりを入れて日暮れまで子供たちと遊び、まり突きやかくれんぼをしていた。
この里に 手まりつきつつ 子供らと遊ぶ春日は 暮れずともよし
 良寛の歌と書を知り、人柄に感銘を受けた貞心尼は、良寛に弟子なりたいと願い出る。良寛70才、貞心尼30才の時である。貞心尼は自ら草庵に良寛を訪ねる。良寛と貞心尼は、良寛が死ぬまでの数年間、お互いを慈しみ敬愛し、愛し合うことになる。村人は、二人の仲を噂し心配するが、二人は一向に意に介さなかった。二人は、度々会って花鳥風月を愛で、仏を語り、歌を詠み、そして、良寛は貞心尼に看取られて亡くなった。良寛は、貞心尼の愛に心からの感謝をこめた辞世の句を贈る。
うらを見せ おもてを見せて 散るもみじ(良寛
良寛の死後、貞心尼は良寛の旅した跡を追い、良寛の遺した歌を集め『蓮(はちす)の露』という良寛の歌集を自ら編んだ。

*「越後の良寛」、「信州の一茶」と書くと、それだけで区別がはっきり浮かび上がり、なんだか納得する気になるのはどうしてなのか。江戸時代はとうに終わり、直に平成も終わろうとしているのに、私たちはまだ「越後」や「信州」という名前にこだわっている。どうもそのこだわりが文化や風土を生み出し、支えてきたようなのだが、だから余計に始末に困るのである。こんな年寄りの愚痴はさておき、越後の良寛と信州の一茶は共に地元だけでなく日本の有名人。その二人のニアミスのような話を紹介したい。
 先に人々に知られたのが次の伝良寛の句で、後で見つかりはっきり確認されているのが二番目の一茶の句。一茶の句を知った良寛がその句を何度も口ずさむうちにもとの句が違ってしまったというような説明がされてきた。

焚くほどは 風がもて来る 落葉かな(伝良寛
焚くほどは 風がくれたる 落葉かな(一茶)

芭蕉の句には彼の気持ちを主にしたものはなく、客観的な自然が形而上学的に表現され、それが蕉風となっているが、一茶は常に自分の眼で、自分の感情をこめて主観的に表現していて、それが彼の特徴になっている。上の二つの句の「もて来る」と「くれたる」の違いも、風の自然現象のそのままの描写と風と自分の関係の表現との違いになっていて、客観的(良寛)-主観的(一茶)と区別できそうである。
 これら二つの見方の違いを利用するなら、「越後」と「信州」の違いは主観的な違いであり、その程度の主観的違いに過ぎないのだとする芭蕉良寛と、その主観的な違いこそ本質的な違いなのだとする一茶に立場が二分されそうである。
 いずれが正しいかではなく、どの状況でいずれが正しいかを見極めるのが大切。
親鸞に「自然法爾」(じねんほうに)という言葉があり、良寛が書いたのはこの「自然」(画像)と言われている。

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