痩せ我慢と日和見:補遺

 「立国は私なり、公にあらざるなり」で始まる「痩我慢の説」は、国家は必要だが、忠君愛国の情は私情にすぎないと述べ、たとえ小国であっても忠君愛国の情を持つことは「瘠我慢」なのだと福澤諭吉は主張する。それに対して、勝海舟は「行蔵は我に存す、毀誉は他人の主張、我に与らず我に関せずと存候」と受け流す。

 福澤は思想家であり、政治家の勝とは比較が厄介で、同列で二人を語ることには注意が必要である。とはいえ、日清戦争での両者の態度は両極端で、わかりやすい。「朝鮮の文明化」を急がなければ、日本が西欧の植民地になる危険性があるとして、それを妨害する中国に対して戦争を仕掛けた日本を福澤は支持した。これに対し、勝は日清戦争に反対し、「日清韓三国提携論」を主張する。

 福澤は勝より12 歳年下で、明治維新まで目立った活躍をしたのが勝、明治に入り影響力をもったのが福澤である。勝は妾が5人いて、正妻の民子は「夫と同じ墓には入りたくない」と遺言し、当初は青山墓地に葬られた。一方、福沢は妻の錦と夫婦仲睦まじく、浮いた話はなかった。ここにも痩せ我慢と日和見の対比が目立つ。