仏教経典の主題は煩悩で、煩悩の詳しい分類や分析は聖書にはないもの。経典の描く煩悩概念が仏教世界の人生観や世界観を生み出してきた。経典が描く物語は荒唐無稽だと退けても、煩悩に関する記述は今でも通用している。「本能」は常識概念(folk concept)、「煩悩」は仏教概念と、それぞれ由来が異なるが、それらの間の交通整理ができているかとなると、見取り図がなく、右往左往するしかない状態が近代以降の社会の中で続いてきた。例えば、本能は煩悩なのか、本能や煩悩は生得的なのか、それとも獲得的なのか。
本能は『生物教育用語集』(1998)によれば、「動物が生まれながらにもちそなえた複雑な能力。学習によらない生得的な動物の特性として広く使われている」と説明される。本能行動は生得的行動、遺伝的にプログラムされた行動と言われている。一方、『仏教学辞典』(1995)によれば、煩悩は「衆生の身や心を煩わせ、悩ませ、かき乱し、惑わせ、汚す精神作用」である。多くの仏教経典で煩悩論が展開され、精緻な分析がなされてきた。それらを要約すると、人の行いはすべて煩悩の働きによるもの。
このように本能と煩悩を比べると、両者は実によく似ている。20世紀以降はヒトも含めた動物の生得的行動を動機づけている要因を科学的に表現する用語が「本能」である。一方、「煩悩」はヒトの生得的行動を動機づけている要因を仏教学的に表現した用語と考えることができ、したがって、煩悩はヒトの本能と同義と言いたくなる。それは少々性急な結論で、まずは「本能」が概念的でしかなく、ヒトも含めた動物の行動の実態を説明できていないことから、本能の科学化が最初の課題となる。
本能の定義が困難だとしても、「本能的」は「生得的」とほぼ同じ意味で使われている。実際には「本能は食欲、性欲、集団欲などの生来備わっている欲求」である。最近は神経生物学や分子生物学分野の研究が進み、生来備わっている欲求(つまり、本能)をその神経回路やそこで働いている情報分子によって多少なりとも説明できるようになってきた。本能は自然が生んだ生物学的に重要な動因であると昔からいわれてきた。初めて動物の行動に関する本能の客観的な定義を提唱したのがダーウィン。それは、本能が自然選択の産物であり、動物の生活の他の側面と共に進化してきたというものだった。現在では、行動は遺伝的素因と経験が複雑にかかわりあって発達すると考えられている。本能概念は変化してきたが、近代の行動研究では本能的に見える行動を生得的な部分、反射の部分、動機づけの部分に分け、分子レベルで解析できるようになった。つまり、哲学的、常識的な概念だった本能が科学的に語れるようになってきた。
人の心は信念と欲求からなっているというのが常識で、本能的な部分はもっぱら欲求だと考えられてきた。一方、信念は言葉で表現され、意識されるもので、獲得的な学習が不可欠だと思われてきた。いずれにしろ、動物が生存し子孫を残す、つまり遺伝子を複製することに由来する根源的な欲求(=本能)は、何億年かにわたる多細胞動物の進化の中で選択され、生得的な本能行動を引き起こすための遺伝子プログラムとして洗練されたものになってきた。
本能が科学的な解明によって明らかになることは煩悩にも大きな影響を与えることになる。なぜなら、本能と煩悩は重なり合う部分がほとんどで、本能の科学的解明は煩悩の科学的解明でもあるからである。そして、本能や煩悩を知ることによって、それらをうまく使いこなすことが倫理や法律につながるのである。煩悩を乗り越え、成仏するのが菩薩の修行だとすれば、それは本能を知り、コントロールする科学者によく似ている筈である。