1歳前後からの幼児の成長を見ていると、言葉や知識はまだでも、感情や欲求の学習は実に見事で、それらの学習は模倣に基づくとはいえ、それに尽きる訳ではなく、驚嘆そのもの。周り人々の顔の表情、喜怒哀楽を幼児は着実に習得していく。食べ物の味、寒暖、好き嫌いを含め、あらゆるものを疲れを知らずに身につけていく。その熱心さは見事としか言いようがなく、猛烈なスピードで人間になろうとしている。幼児の学習の貪欲さを見れば、学習は人間の本能そのものであることを実感できる。親なら誰も子供の学習能力に驚嘆し、嫉妬する経験をもつことになる。
幼児は欲求さえ巧みに学んでしまう。何がほしいか、何が嫌か、幼児の感性は実に鋭く、瞬く間にマスターしてしまう。幼児の学習への貪欲さは何を物語っているのか。人の本能は生得的で、学習によって獲得するものではない筈なのに、幼児はそれさえも学習してしまうと言わんばかりである。だが、私たちの真っ当な常識からすれば、「本能が学習される」ことはあってはならない筈のもの。
「本能の学習」とは「丸い三角形」のように矛盾した表現だというのが私たちの常識。筋金入りの経験主義者は「生得性」を否定し、生まれたときはtabula rasa(白紙)の状態で、すべては経験的に学習して獲得するものだと主張する。学習は当然ながら後天的なものである。というより、後天的なものしか学習はできない。それゆえ、本能や生得的能力が人にあるとしても、それらを学習することは不可能というのが経験主義の立場である。
私の主張はこの立場に反して、本能は学習できる、学習しなければ私たちは本能を存分に発揮できない、というものである。私は経験主義者であるが、学習こそが経験主義のエッセンスであり、私たちは何事も学習によって自分のものにすると考えている。本能も生得的能力もしかり、というのが私の経験主義的な主張である。
「氏か育ち」と問われれば、育ちがなければ氏もない、というのが私の立場。本能も学ばなければ形にならず、盲目のまま。「学ぶ」という本能は正に人間的な能力であり、他のどんな能力より優れた能力である。それゆえ、ここでの私の主張の主旨は「学習は何にも還元できない、原初的な能力、真の本能」である。つまり、学習は学習できない。
さて、哲学には「志向性(intentionality)」という言葉がよく登場し、それが意識のもつ特徴と声高に言われてきた。「何かについての」意識というのが意識の本源的特徴で、それが「意識の志向性」と呼ばれてきた。心的能力や心的機能についての一般名詞のほぼすべてはこの意味で志向的である。「本能、能力、感情、欲求、信念」等々、これらはいずれも「何かについての」本能や信念である。志向的な心的働きは大抵生得的なものだが、心的働きと言っただけでは何もわからない。その理由は、例えば本能について、「何かについての」本能は「何かについて」の部分を経験的に学習しなければ、その本能の肝心の内容が不明のままで、何もわからないからなのである。
DNAには数学も物理学の知識も書かれていない。学習本能をもつとしても、「何かについての」学習が意味をもつのは「何かについて」がわからなければならない。それは経験的に学習しなければならず、あらかじめDNAに書き込まれてなどいないのである。数論も幾何学もDNAには書かれておらず、学校で学習しなければならないのである。
学ぶとは「何かについて学ぶ」のであり、その学ぶ何かは志向的内容。志向的な心的働きは学ぶことによって実現されるのである。これは至極当たり前のことで、相撲取りが強いのは生得的な素質に(その原因が)あるとしても、稽古によってその素質を鍛えなければ強くはなれない。つまり、「相撲に勝つことについての」生得的な素質は実際に稽古によって学習しなければ実現しないのである。
志向的な学習と学習の行為、プロセスの仕組みは異なっている。学習内容と学習過程が違うのは当たり前のことだが、本能と私たちが呼んできたのは学習の過程であって、学習内容ではない。内容はDNAには組み込まれておらず、学習されなければ獲得できず、またその正確な内容は科学的追求によって経験的に知られていくものである。
こうして、学ぶのは本能の志向的内容だということになる。「何かについての」本能と言わなければ、本能が意味不明ということは、その「何か」を経験的に獲得しなければわからず、その最も単純明快な「わかり方」が知識として学習することなのである。