自然の都合が脚色されることなく反映された知識やそれを表現する用語と、人の都合がもっぱら反映された知恵や習慣とそれを表現する語彙との二つがミックスされた世界に私たちは住んでいます。それぞれ自然の本性(Nature)と人間の本性と言い換えることもできそうです。自然の都合だけを考えて世界を知り、理解しようとするのが科学者だとすれば、科学は単純明快な知的活動ということになるのですが、人はその清き流れだけの世界ではなく、清獨併せ呑む生活世界の方が好きなようです。自然の都合は自然の本性、自然の法則と捉えてほぼ構わないのですが、人の都合は人の欲求や意志が生み出すもので、欲求や意志の実現のための都合なのです。そして、人は自然の都合より自らの都合を優先して生活を楽しみ、持続させています。
自らの都合を優先させることを理解するために錯視図形を考えてみよう。私たちにはらせん状に見えても、実際は同心円の集まりだという錯視図形があります(画像参照)。私たちの感覚的経験はらせん状に見えてしまう錯視図形と似たようなものです。そのような感覚経験をもとにして世界を捉えれば、それが生活世界とその経験ということになります。それゆえ、感覚は私たちを欺くとまとめられ、それが経験主義への批判として述べられてきました。でも、それはやはり反経験主義者のプラトンらの傲慢とも思える偏見で、私たちの感覚が欺かれるにはそれなりの理由があることを忘れてはならないと経験主義者は反論します。彼らによれば、私たちは自らの生存のために欺かれるべくして欺かれるのです。合理的な欺瞞こそが知覚経験のもつ大きな特徴であり、それゆえ、私たちの知覚経験や感覚質は幾何学では説明できないものなのです。
人の都合は本能と学習の二つによってつくられています。ですから、既に部分的には人の都合は自然の都合の一部であることは明らかです。人の都合のすべてが自然の都合か、あるいはその正反対に、人の都合はすべて反自然的なものかは、長い間熾烈な議論が戦わされてきました。私たちの知覚装置と知覚経験は生得的なものと獲得的な学習の両方によって働いています。人の都合は生得的な装置の使い方を習得することによって実現します。
都合は自然であれ、人であれ、歴史を通じて熟成され、変化してきたものです。自然にあるものにはどれにも都合があると考えて構いません。「どんな存在も歴史をもつ」という歴史主義を今更強調しても時代遅れに響くのですが、変化は歴史の別名だと考えてよいでしょう。
人の都合は自然の都合に抵触せず、自然の都合の持続に反しない限り、同じように持続可能です。そのような意味において、人の都合は自然の都合なのです。では、今の私たちの都合はどれも自然の都合になっているのでしょうか。私たちの都合は反自然の都合になっていないのでしょうか。このように問うと、いささか自信がなくなり、人の都合の相当数は反自然的だと言わざるを得ません。そのような都合が長期にわたって蓄積されるなら、ついには自然の都合を越えて自然破壊をもたらすことになります。例えば、「地球温暖化」は自然の都合に合致せず、人の都合によってもたらされたものです。人の都合の多くは人の欲求、欲望によって生み出されます。それら欲求や欲望は身の程を知らず、自然の都合に納まり切れないほどに膨張します。それが人の恐ろしいところで、自然に不都合であっても人の都合を優先してしまうのです。