人間の能動性

 最近の知覚心理学の研究によれば、正常な状況なら視覚系は外界の情報を正確に受け取るのですが、そうでないと、曖昧な結果をもたらすことが多くあり、「多義図形」はそのような結果の一つです。アトニーブの三角形を眺めていると、最初すべての三角形がある特定の方向に向かっているようにみえますが、しばらくすると、別の方向を向いているようにも見えてきます。そして、このような現象(視覚交替)が無限に繰り返されます。

 視覚交替は、視覚系が能動的だという重要な例証です。視覚系は新しい情報が入力されてから次の状態に変化するとは限らず、ときには自分でその状態を変えてしまうのです。オーストラリアのパースにある「三角形がないのに、三角形が見える」彫刻もこのような例かも知れません。面白いことに、この命題は「三角形が見えるなら、三角形が存在する」という命題の否定形なのです。「見える」と「在る」の間に違いが生じるのは、視覚系が能動的に働いた結果なのだと思われます。

 視覚というセンサーが信頼できる、つまり、「見たものが、その通りに在る」のは、センサーが100%受動的で、自ら工夫して小細工などしないからです。センサーが正直者であるとは、「在るがままに見る」ということです。ですから、私たちの視覚系が能動的であればあるほど、見えるものと在るものの間にズレが生じるということになります。知覚系が能動的とは知覚することによって何かを生み出す、何かを脚色するということです。当然ながら、生み出されたもの、脚色されたものは、元々世界に在ったものとは違います。

 見ることが能動的な要素を含むとはどのようなことでしょうか。その一つの意味は、私たちは単に見ているのではなく、知識を使って見ているということです。経験的知識が誤り得るものであることを認めるなら、その知識を使って知覚されるものも誤り得るものになります。能動的、積極的に見ることが知識を使って見ることであるなら、知識の援用が見ることと在ることのズレを生み出すことになってしまいます。

 私たちは何か新しいことを見つけたい、知りたいと思えば、積極的に観察し、能動的にそのデータを取り扱います。その能動的な行為が新しい知識を生み出し、その結果、世界を知ることができるようになったのです。

 ところで、哲学者にはリアリストとロマンティストがいます。アリストテレスがリアリストなら、プラトンはロマンティストですし、ヒュームがリアリストなら、カントはロマンティストです。このような分類は大した意味をもっていないのですが、「在る」と「見える」の間の違いについての説明にこの分類を使ってみましょう。

 今流行りのロボットは、AIとセンサーを組み合わせたものです。センサーは外界の情報をデータとして入力し、それを計算処理して行動を決めるのがAIです。忠実なセンサー、正確なコピー、正しい計算、推論、適切な決定がこの過程に含まれています。知覚と判断のような二段階で経験を捉えるのはロボットだけでなく、人間もそうです。でも、AIと違って、人間の特徴は上位の判断レベルが始終下位の知覚に干渉する点にあります。判断は知識を使って行われますが、それが知覚に干渉するのです。知覚に絶対の信頼を寄せる動物とは違って、人間は絶対の自信をもつと過信する悟性の働きに頼り過ぎるようです。

 心がもつと想定される知識、本能、欲求、意志等がデフォルメされ、それらが何かを生み出す、産出する、創生すると考えることが正にロマン主義の特徴です。心の持つ働きを過剰に生産的に捉え、心が世界を生み出すとまで信じてしまうのです。ですから、創造的な活動は大抵ロマンティックなものになります。このような傾向は精神が物質に優先するというような途方もない考えにつながり、その代表の一つがヘーゲル哲学と言えます。人間の精神を信じ、それによって世界を変えていこうという意気込みには感服できても、それは節度を保ったものであるべきです。

 私たちの意識は知覚したものを判断する前に、何をどのように知覚するかまで干渉します。これは自由意志の勝利であるのですが、それと同時に知覚と存在の紐帯を断ち切ることでもあります。

 視覚が能動的であることについて、ロマンティストは精神の創造性を示すものだと信じ、リアリストは主観的な雑音に過ぎないと批判することになります。では、あなたはどちら?