二つのアブチロンから

 個々の生物、特に植物の様々な部分や生態の表現と、それを知覚し、主に言葉と画像を使って行う私たちの表現との間には対応的な秩序があるが、時にそれがおおきな混乱を引き起こす。その些細な例がツル性のアブチロンと木立性のアブチロンだった。二つを見て、感じ、比べるだけでは、二つが近縁の植物だということは余程のことがない限り、普通の人にはわからない。二つが近縁の植物だと知るには知覚だけでは不十分で、知覚の背後にある知識が求められるのである。

 世界の風景から諸行無常を直感することは、風景から普遍不変の仕組みを追求する理屈とは異なる。諸行無常の現象は普遍不変の理屈を追求する初期条件のようなものだというのが西洋の歴史であり、そこに本質を見出す仏教的な世界観とは根本的に違っている。

 人は自らの才能がどれだけ創造的かよくわからない。だが、知覚が想像的であることを時には許すとしても、創造的であることを誰も許さない。私たちが知覚に期待するのは対象の忠実な写像であることだろう。とはいえ、対象が複雑に入り込んだ地形や風景となると、知覚より知覚の解釈、解読が重要になってくる。これは、何を知覚するかに応じて、知覚に対する期待が異なってくることを意味している。そして、それは真から美まで至る人の能力の基礎となっている。

 創造的であるとは自然のものを模倣するだけでなく、その一部を知り、独自のものを生み出すことだと誰もが理解しているが、個々の創造がどれほど独自のものかは神のみぞ知るで、人にはよくわからない。それは科学も芸術も大同小異で、実験と事実はスケッチと写真のように紙一重であること、時にはそれらが重なり合うことを意味している。

 こうして、観察と創造はそれぞれ異なりながら、観察は創造の芽を、創造は観察の根を持っていることがわかる。不変のものを使って、変化を表現するのが西欧型で、不変の言語を使って現象変化を説明するのがその典型。変化を知覚し、その変化を敷衍し、そこから身の処し方を導き出すのが仏教型である。少々大胆に、そのミニチュア版がヘラクレイトスパルメニデスの哲学に違いであり、ゼノンのパラドクスはその踏み絵のようなものであると考えることもできるだろう。

*数学を使って物理現象を理論化し、それを使って現象を説明するのは、言葉を使って感覚世界を表現することの特別な例である。