生得的、あるいは獲得的?(1)

 「ゾウは鼻が長い」という文は、英語やフランス語を母国語とする人には主語が二つあるような印象を与えます。「ゾウ」も「鼻」も主語となると、一つの文の中に主語が二つあることになります。でも、日本語を話す私たちには何もおかしいことはなく、真っ当な日本語の文として理解できます。そこで、この文を変形しながら、日本語の文として正しいかどうか考えてみましょう。

 「ゾウが鼻が長い」とは言わず、「ゾウが鼻は長い」も使いません。でも、「ゾウの鼻は長い」は正しい文です。では、この文は「ゾウは鼻が長い」という最初の文と同じ意味なのでしょうか。たいていの人は同じ意味の文だと答える筈です。でも、違う文ですから、違う意味をもつ筈で、それは何かとなると、(少なくても私には)うまく答えることができません。

 「私は学校へ行く」から「誰が学校へ行く?」は作れますが、「誰は学校へ行く?」とは言いません。では、「ゾウは鼻が長い」から「何が鼻が長い?」、「何は鼻が長い?」は作れるでしょうか。前者が作れ、後者は作れないという答えがある程度ある筈ですが、「が」が二度も登場することに抵抗感を持つ人も多い筈です。「ゾウは何が長いか」は自然に聞こえますが、「何は鼻が長いか」は相当に不自然です。

 そこで、これらの例文から哲学してみましょう。ある文が正しく、別の文が正しくないと子供たちが感じる理由は何なのでしょうか。大人が話すのを聞きながら、上記のような判別を記憶していくのでしょうか。学校で文法を学び、文法的に文の正誤を知ることの前に、私たちは正誤を感じ取っているようにみえます。実際、上記の例文の正誤を文法規則だけから説明できる人はまずおらず、私を含め多くの人は「語感」に頼っている筈です。では、その感じ取り方の獲得は科学知識を手に入れる時のように経験主義的なのでしょうか、それとも生得的、本能的なものが関与しているのでしょうか。言葉の規則はすべてが経験的に学習された結果なのか、私たちが進化の結果としてもつ生得的な文法が経験的な刺激を受けて開花したものなのでしょうか。