古代世界の人々なら植物の心は普通の存在だったろうが、今の私たちは植物に心があるとは思っていないだけでなく、多くの動物についても心を認めないだろう。哲学の世界では人にさえ心を認めない思想が市民権を得ている。
アゲハチョウの行動を見ていると、花粉を運ぶポリネーターだと実感するのだが、肝心のアゲハチョウは自らを運び屋だと自覚しているのかとなれば、アゲハチョウは本能的に行動しているだけで、何をしているかの自覚などなく、自らをポリネーターとは思っていない。というのも、アゲハチョウは心をもたず、自意識などないからである。こんな風に私たちは思っているのだろうが、その直接的な証拠はなく、それゆえ、心をもつチョウの童話もあれば、AIを使ったチョウのロボットもある。
イヌやネコに心を認める向きもチョウに心があることに躊躇するのは不思議ではないだろう。9月も中旬、セミの声がすっかり止んでしまったが、秋の虫の音を聞きながら、昆虫たちの心を考えてみるのも夜長にはいいのかも知れない。例えば、私たちは「チョウの親子、家族」、「チョウの愛憎」、「チョウの希望」といった表現をなぜ不自然だと思うのだろうか。