LGBTと心身二元論(1)の最後で「遺伝子によって男女の性別が決まり、さらに胎児の頃に男性ホルモンによって心の性別が決まる。そして思春期にも性ホルモンの洗礼を受けて、大人の男性、女性へと変化していく。身体と心の性別は段階的に決められていくのである。「恋に落ち、結婚して子供をもうけて…」という当たり前の人生行路は脳の性差の仕組みを考えると、いくつもの条件が重なった結果であり、正に微調整された奇跡の結果に見えてくる。」と述べた。そこで、まずは「性同一性障害、あるいはトランスジェンダー」というタイトルで二つの概念の基本的な違いを浮き彫りにしてみよう。
かつて私はアリストテレスの正常モデルに言及したことがあった。アリストテレスは生殖を他の動物との比較で研究した最初の人であり、彼の考えによれば、精子が胎児を産み出す種をもち、月経の血がそれを成長させる土壌となる。アリストテレスは、胎児をつくり、成長させるのは霊魂であり、男はその形相因、機動因であり、女はその質料因であると考えた。彼の考えはトマス・アクィナスに引き継がれ、カソリック神学の基盤となる。人間の誕生はまず植物的、次に動物的、最後に人間的の順で生じるゆえに、初期の教会では嬰児殺しより、植物的段階の堕胎に対する倫理的な反対の方が少なかった。また、精子は生命の本質であり、それを浪費することは重大な罪であった。イスラム教では女の精子も生殖において血や肉を造る素になると考えられ、男の精子だけでは生命はできないので、男の精子の浪費は問題ではないとされた(こうして、マスターベーションに対してキリスト教とイスラム教で異なる態度が取られることになった)。
性やジェンダーの議論に限らず、人間の心理や行動を語る場合、「正常」、「異常」という言葉が多用される。「異常性愛」、「変態」という言葉は正常な性愛があって、そこからのズレと考えられている。「正常」や「異常」には事の「善し悪し」に似た、価値判断が含まれているようにみえる。ここには規範にかなっていれば正常、もとれば異常という判断が含まれているようにみえる。そのような判断が含まれていれば、「正常」や「異常」を含む考察や研究は価値判断を含むものとなってしまう。類似の例は「健康」と「病気」である。
どのようなものにもそれ本来の存在の仕方と場所があり、その本来的な姿を正しく把握することが本質の理解につながるというのがアリストテレスの正常モデルの考えである。アリストテレスの物理学は目的論に満ちている。彼は星も有機体に劣らず、目的志向型のシステムであると信じていた。内的な目的が重い対象を地球の中心へと引きつける。重い対象はこれを自らの機能としてもっている。どんな対象にもその自然状態があり、その対象の不自然な状態から区別される。対象が不自然な状態にあるのは外部からの干渉が働いた結果である。自然な状態にある対象に働いて、その対象を不自然な状態にする干渉力は、自然なものを偏向させる原因である。したがって、自然の中に見られる変異は自然な状態からの偏向として説明される。干渉力がなければ、重い対象、軽い対象ははみなそれぞれの本来の場所に存在することになる。ニュートンとそれ以後の物理学には「自然な」、「不自然な」という語は登場しなくなるが、アリストテレスの区別はそれらの物理学においても可能である。対象に働く力がなければ、当然、干渉力もない。力学での自然状態は力の働かない状態であり、慣性の法則がこれを表現している。また、目的と機能はアリストテレスでは結びついていたが、ニュートン以後の物理学では切り離されている。
このモデルは物理的なものだけではなく生物に対しても適用される。人間の正常な姿が人間の本質を具体化したものであり、その本質からズレたものが正常でないものである。それら異常なものはたとえ出現しても選択され、支配的になることはない。このモデルは天体の構造や生命現象を大変うまく捉えている。模範になる姿があって、それに外れるものはたとえ存在しても、あくまで例外に過ぎない。
アリストテレスの正常モデルと根本的に異なるのがダーウィンの変異モデルである。彼は生物集団の中には常に変異が存在し、それが個体差として選択のふるいにかけられ、生存と生殖に関して有利なものがその集団の中で多数を占めるようになるという、いわゆる自然選択説によって生物の進化を説明した。この説明の出発点は変異の存在である。この変異、個体差には正常も異常もない。そこにあるのは個体間の差だけであり、この差が選択の原動力になっている。したがって、正常、異常とはある時点の集団の多数派、少数派に過ぎなく、本質的なものではない。
このように見てくるとアリストテレスとダーウィンの違いは歴然としている。では、私たちが現象を考える際、いずれのモデルで考えているだろうか。多分、物理現象、生命現象に関してその原理的な部分ではダーウィン風に、私たち自身の身体的特徴、行動に関してはアリストテレス風に考えているだろう。異常な行動は大抵の場合悪い、してはならない行動とさえ考えられている。このように述べただけでも、そのような分析が価値判断を含むかどうか、価値判断からは中立かといったステレオタイプの問題ではないことが明らかだろう。
アリストテレスのモデルが(かつて考えられていたように)正しい科学的なモデルであれば、「正常」、「異常」は優れて科学的な概念であり、それら概念を正しく使っての判断は正しい科学的な判断である。一方、ダーウィンのモデルが正しい科学的なモデルであれば、「正常」、「異常」は科学的に誤った概念であり、それら概念を使っての判断は科学的に誤った判断ということになる。この表現のどこにも価値判断など入っていない。問題は「正常」、「異常」を最初から価値判断が入っていると思い込むことである。確かに、より複雑な人間の行動に関しては科学的でない基準や約定が関与しており、そこから価値判断を含んだ「正常」や「異常」が生まれ、伝統をつくってきた。しかし、それら基準や約定は科学的な知見に依存している。その科学的な知見が正しいかどうかを判定するのはいずれのモデルを選ぶかという問題であり、価値判断とは独立した事柄である。
さて、多くの人は「自分が男なのか女なのか」といった疑問などもたずに成長するが、身体の性と自分が意識、認識する性が違い、その違和感に苦しむ性同一性障害の人たちがいたり、男女という二つの概念にとらわれることなく自分を自由に表現するトランスジェンダーの人たちもいる。性同一性障害は「自分の性別について、自分で自覚、自認している性別(ジェンダー・アイデンティティー)と戸籍上の性別(身体的性別)との間にずれがある状態」と定義されている。「男女」という二つの性別を生物学的、医学的な原理だとすれば、身体は男性だが意識は女性、または身体は女性だが意識は男性、そしてその違いに苦痛を感じ、苦悩するのが性同一性障害であると言われてきた。
だが、最近では自分の性別が男女どちらでもない、どちらとも決められない、自分は男女の中間だと本人が自覚している場合がよく見られる。それを「Xジェンダー」と呼ぶこともある。そうなると、男と女という概念を原理にした性同一性障害からズレてくる。「ジェンダー」は「社会的性」などと訳されるが、「自分が生きていく上で自らをどういう性であると表現したいのか」をジェンダーと考えると、それが社会から認識される性と一致せず、自分らしい独自の性を表現する人々がトランスジェンダーと呼ばれている。セックスについては正常、異常をアリストテレス風に考え、その範囲で理解されているのが性同一性障害であり、トランスジェンダーとなると、正常、異常の区別では理解できず、ダーウィン風の多数、少数という区別になる。
そのジェンダーは次の三つの要素を含んでいる。
gender identity(性自認):自分はどちらの性別に属するか
gender role(性役割):自分はどういう性的役割を担うか
sexual orientation(性指向):自分の恋愛対象はどちらの性か
三番目の要素は、性同一性障害の診断には無関係。恋愛対象が男女どちらなのか、これが常識的でない人はゲイやレズビアン、バイセクシュアルなどと表現される、性同一性障害を考える上では「自分が意識する性役割がどちらなのか」ということが重要になる、等々。ジェンダーの話になると、身体や脳のレベルから心や社会のレベルに変わっているのが見て取れる。
こうして、議論の性質(正常と異常、多数と少数)と議論の場面(心と社会、脳と身体)という二つの軸によって分け、議論の相対的な位置を定めること、そして、それを使ってLGBTに関わる歴史的な推移を丁寧に見直すこと、その上で科学的な事実を重ね合わせて、的確な枠組みを特定すること、これらが必要となることが見えてくるのではないか。そこで、次にLGBTについての「生得的か、獲得的か」の話を子供に特定して考えてみよう。