「正常・異常」から「多数・少数」へ

 「同じ」仲間は正常者たち、「違う」者は異常者たちというのが、かつては社会の中の常識となっていました。正常なものの中にそうでないものがあると、それを異常なものと捉え、それは違うもの、異なるものであるという判定に使われました。一方、それを少数と捉えても、違うもの、異なるものの判定に使うことができます。つまり、「同じ、違う」の一般的な理由として、かつては「正常・異常」が使われ、今ではそれが「多数・少数」に移行しているのです。より正確には、かつては正常が多数で、異常が少数というのが人間社会の暗黙の前提でしたが、それが今では「多数・少数」だけになっているのです。

 実際、今の社会ではこれまで「正常と異常の違い」と考えられてきたものを「多数と少数の違い」に組み替えることがよく行われています。それは宗教、民族、文化の違いだけでなく、価値判断、倫理や道徳、趣味や嗜好にまで及び、多様性を認め、少数派を守るという傾向が強くなってきています。その背景には何があるのでしょうか。そこにあるのは、正常と異常の区別についての正当な基準や理由が見出せない場合、その事柄は多数と少数の違いに過ぎないのだから、互いを同じように扱うべきである、という方便、カラクリです。この方便を支える考えの一つは、「正常、異常は価値判断が含まれた区別である」という主張であり、価値判断を含む正常・異常から価値中立の多数・少数にシフトするのが公正な立場だというものです。これがよく見られる考えなのですが、別の考えもあります。それは、適切な理由があれば、正常、異常という概念は価値を含まない真っ当な科学的概念として認めることができる、というものです。いずれにしろ、正常・異常は多数・少数のような単なる分布の違いではない、ということです。

 老齢者、身障者だけでなく、家族制度、LGBT等、実に多くの事柄について、正常・異常から多数・少数へとシフトして、色々な問題が議論されています。そこでは、かつての正常・異常の根拠が崩れ、区別する必要がなくなったのか否かは、自明でわかったこととして省略されてしまう場合がほとんどです。さらに、正常・異常が省略されず議論されたとしても、宗教教義や倫理として価値を含む正常・異常と、構造的な違いによる正常・異常との区別が上手くできず、曖昧になっています。そのため、不幸なことに離婚、妊娠中絶、同性婚等について反対者と賛成者とが異なる土俵で勝手に議論することになります。それらへの反対者は「正常でない」と反対し、賛成者は「少数派を守れ」と賛成するのです。

 この大きなズレは社会を支える政治、宗教、思想のどの領域にも現れています。特に、既成宗教はこの状況に昔から気づきながら積極的にコミットできないままです。例えば、同性婚について既成宗教は明確に賛成あるいは反対できないままで、これは他の類似の事柄についても同じなのです。

 こうして、社会の中の「同じ、違う(あれか、これか)」の判断に使われる「正常・異常」はアプリオリに決まっているのではなく、アポステリオリに決まるか、単に「多数・少数」に過ぎないか、なのです。