花を哲学する(2)

 「花とは何か」という問いにくそ真面目に答えようとすれば、おそらく次のようになるのでしょう。正真正銘の花とは、その内側から、「めしべ(雌蕊・しずい)」、「おしべ(雄蕊・ゆうずい)」、「花びら(花弁)」、そして「がく(萼)」の四つがそろったもので、「完全花」と呼ばれます。これが「花とは何か」への模範解答だとすれば、それに従わない仕組みを持ちながらも、私たちに花と呼ばれ、花そっくりに見えるものが偽物の花ということになります。しかし、昨日の(1)では進化という文脈の中で考えるなら、いずれも花であり、本物や偽物という概念は進化という文脈では正しくないものということになります。

 このように結論することが正しいにもかかわらず、私たちが強い抵抗感を持つのはどうしてでしょう。それはアリストテレスの長く頑固な伝統のためと思われます。アリストテレスは花の「本質」を想定し、それを持つか持たないかによって本物と偽物を区別しようとしました。「正常」、「異常」もアリストテレスの同じような区別ですから、「本物-偽物、正常-異常」のような二分法がアリストテレス的な物事の捉え方だと理解できます。病気は身体の異常な、健康は心身の正常な状態であると私たちは普通に考えますが、それがアリストテレス風の考え方なのです。それが具体化された知識が博物学(自然史、natural history)です。博物学の中心にある分類学の分類基準は正しく本質を把握することで、正にアリストテレス主義そのものです。ところが、反アリストテレスの代表の一人であるダーウィンは、生物の形質に関して正常や異常は集団の中の多数派や少数派のような違いに過ぎなく、本物も偽物も程度の差に過ぎないと断じたのです。

 こうなると、「本物の花」と「偽物の花」の違いも、アリストテレスのように本質的な違いだと考えるのではなく、多数派と少数派の違いのようなものに過ぎないのだと考えることができます。このいい加減に見えるような結論は以下のような具体例を考えていくと、どれも標準的な花から進化した子孫、あるいは標準的な花を生み出した祖先であることが見えてくるのです。

 そこで、少数派の花の例を二つほど見てみましょう。

(1)苞(ほう)が花のように見える

既に挙げたツユクサの花も開く前のつぼみは緑色の「苞(ほう)」に包まれています。「苞」を「つと」と読むと、納豆を思い起こしますが、植物の部分を指す苞の役目も推測できます。つまり、苞(苞葉)とは、植物の芽やつぼみを優しく包んでいる小型の葉っぱのことで、葉が変化したものです。色は、葉のような緑色をしたものや、鱗片状で褐色のもの、花びらのように美しい色の苞もあります。ハナミズキの見かけの花は「苞」で、花は真ん中にある黄色い部分です。同じハナミズキ科のヤマボウシカラー、ブーゲンビリアミズバショウポインセチアなどはどれも苞が変化した花をつけます。

(2)萼(がく)が花のように見える花

ガクアジサイオシロイバナがその代表例で、明らかに花びらと見えるものが、なんと萼(がく)なのです。アネモネクレマチスの花も萼なのです。

 ガクアジサイブーゲンビリアの花について述べたことを思い起こすなら、「花ではない花について」考えることになり、その哲学的な考察では「花」が進化する対象であり、「花とは何か」が進化の過程で変化する問いであることが浮かび上がってきます。ガクアジサイブーゲンビリアの「花」を現代風に気軽に呼ぶなら、「カラーリーフ」ということになるのでしょう。