『原論』あるいはユークリッド幾何学とはどのような知識なのか?

 人類が生活世界で発見し、大いに頼った原初的な数学概念は「多数性」と「空間性」だったようである。多数性は動植物や日付、日数を数えることに、空間性は土地の広さ、水量を表すことに関わっていて、それぞれが後に「算術」と「幾何学」に発展することになった。エジプトの数学は経験的だったが、それを学んだターレスは数学を論証的なシステムにつくり変えた。ギリシャの数学をさらに推進したのはピタゴラスで、ピタゴラス学派によるピタゴラスの定理と無理量(現在なら無理数で表される量)の発見はつとに有名である。正方形の一辺と対角線は通約不可能、つまり、長さ1の正方形は無理数の長さ(量)の対角線をもつ。これを発見したのはヒッピアスと言われている。この結果は、すべての幾何学的な長さの比を表現するには数では不十分で、長さという空間的な量を必要とする、それゆえ、算術より幾何学が優れているという結論が出され、それがギリシャ数学を支配する特徴になったと言われている。
 『原論』で展開されるユークリッド幾何学ギリシャ数学の集大成であり、聖書を除くならば、『原論』はこれまでもっとも多く出版された書物である。「定義」、「公理」、「公準」、そして「点」、「線」、「作図」といったお馴染みの概念について再確認し、「論証」形式の具体的な完成である『原論』の内容を通じて、幾何学のもつ真の意義を探ってみよう。因果的な生活世界を因果的でない知識を使って理解し、利用する仕組みが『原論』によって可能になったのである。私が最も言いたいこと、それは古典的世界観の基本に、そして私の生活世界の基本中の基本に位置するのが「点」であるということなのだが、その出発点の「点」が『原論』の最初の定義から始まることを思い起こし、話を始めよう。
 
<『原論』の歴史等々>
 『原論』で述べられる幾何学は現在学校で教えられているユークリッド幾何学とは多少違うことを念頭に置きながら、『原論』の内容について考えてみよう。紀元前300年頃に著された『原論』は、ギリシャ数学を集大成し、数学的な知識を体系的、演繹的に述べ、説明した画期的なテキストである。その後、次第に代数化が進み、遂にはデカルトによって幾何学は解析幾何学として解析学に統合されることになる。ヒルベルト形式主義の立場から、ユークリッド幾何学代数的構造をもつ形式的なシステムとして整備した。ブルバギの『数学原論』には「幾何学」という項目が見当たらないが、それらは「幾何学」を無視したというより、普遍的な思考法として幾何学的手法を数学の中に取り入れ、融合した結果で、幾何学は数学という学問の中の個別の一領域ではなく、数学全体に広がった真理であることを意味している。ユークリッド幾何学からの展開の試みの一つが「平行線の公準」にあった。平行線の公準を否定することによって、ガウス(1777-1855)、ロバチェフスキー(1793-1856)、ボリアイ(1802-1860)たちは非ユークリッド幾何学を提唱した。また、測度を導入して普遍単位をきめることによって、デカルト座標に対応させることができる。しかも、平行線の定理や三角形の合同定理などの難解な定理の証明を後にまわすことができる。分度器の使用によって角度を決めることができ、それによって三角関数に対応でき、球面を非ユークリッド幾何学のモデルとして扱うことができる。デカルトによる解析幾何学の発見以来、幾何学は単独には存在せず、代わりに代数幾何学位相幾何学微分幾何学のように、あらゆる分野に幾何学の手法を取り入れて数学が展開されることになる。
 『原論』の成立に関わるギリシャ数学史の情報源となると、5世紀のプロクロス(Proclus)による原論の注釈しかない。新プラトン派の哲学者プロクロスは412 年コンスタンチノポリスに生れ、アレキサンドリアその他に学び、やがてアカデメイアの学頭となった。『歴史概観』は,彼の著書『ユークリッド『原論』第1 巻注釈』の中に入っていたもので、古代人の手になるまとまった数学史としては、現存する唯一のもの。帰謬法を使って、ゼノンが「アキレスは亀に追いつけない」とか「飛んでいる矢は止まっている」という命題を証明しようと試み,その後まもなく,ピタゴラス派が無理数を発見し、その後1 世紀を経ずして、「点とは部分をもたないものである」という定義から始まる『原論』によって、ユークリッドはそれまでの数学の知識を体系的・演繹的に叙述した。この書物によって厳密な公理的、論証的な数学が誕生したが、長さ・容積・重さなどの連続的に変化するものは、数ではなく、「量」と見なされた。
 量といえば、誰も物理量や統計量を思い出すに違いない。物理量の値は常套的に実数で表現されることになっている。今の私たちは物理量が実数で表現されることを信じて疑わない。そのためか、物理量はいつでも確定した値をもって存在していると思っている。私の体重は今私が正確に知らないとしてもある特定の値をもっているというのが常識となっている。例えば、物理的な対象の位置や速度、圧力や体積は、私たちとは独立に存在し、その状態を乱すことなく私たちは位置や速度、圧力や体積を知ることができ、それらの値は当然のごとく、測定していない時も確定的に存在すると思い込んできた。対象が小さすぎたり、遠過ぎたりして測定できず、その結果、値が知られることがない場合、その物理量が存在しないというのは、確か量子力学コペンハーゲン解釈であった。
 ところで、私たちの住む世界で、ある点で示される対象は位置をもっているが、その値がないという事態は考えられるのだろうか。古典的世界観のもとではそのような事態は考えられない。対角線の長さのような量は存在するが、それを表示できる数がない、これがギリシャ幾何学での数と量の関係であるが、量子力学を始めとする非古典的な物理学での数と量の関係は古典的な場合とは随分異なっている。
 『原論』において確認しておきたい事柄は幾つもあるが、(1)論証の構造を知ること、(2)数学が何かを表示、表現すること、(3)点と運動の関係、これらが私の関心ということになる。

<『原論』の内容等々>Ⅰ巻
 原論の第I巻は定義、公理、公準から始まり、三角形の合同,定規とコンパスによる作図、平行線の性質などを証明し、ピタゴラスの定理で終わる。最初の定義は23個。
定義
1. 点とは部分をもたないものである。
2. 線とは幅のない長さである。
3. 線の端は点である。
4. 直線とはその上にある点について一様な線である。
5. 面は長さと幅のみをもつものである。
...
23 平行線とは,同じ平面上にあって,両方向に限りなく延長しても、いずれの方向においても互いに交わらない直線である。

 これら定義の中で私が最も注目したいのは最初の「点」の定義である。無定義の「部分」という言葉を使って「部分をもたないもの」としてまず点が定義される。幾何学のもっとも基本的な対象は点であり、それは部分がなく、現代風に言えば、0次元の対象ということになる(1次元の対象は線、2次元の対象は平面図形、そして私たちは3次元の対象として存在している。これに時間の次元を加えると、いわゆる4次元の世界、つまりブロック宇宙モデル(Block Universe Model)の世界ということになる)。点に大きさやサイズがあるなら、そのサイズの半分が全体の中の部分として存在することになるから、部分がなければ、サイズもないことになる。つまり、部分がない点はサイズがない点ということになる。サイズのない点は物理世界に存在できるかと問われるなら、サイズのない物理的な存在を見たことがない私たちは、点は物理世界に存在せず、イデアの世界の数学的な対象だという意見に賛成したくなる。だが、その後の幾何学の歴史を考えると、点がどの世界にあるか、ないかという存在論的な問題より、点が何を表示し、その表示によって自然の変化を描くのにどれだけ成功したかの方が実は遥かに重要なのである。
 自明な性質を公理(axioms)または共通概念(common notions)と呼び、要請あるいは仮定されるべき性質は公準(postulate)と呼ばれる。
公理
1. 同じものに等しいものは互いに等しい。
2. 等しいものに等しいものを加えれば,また等しい。
3. 等しいものから,等しいものを引けば,残りは等しい。
4. 互いに重なり合うものは互いに等しい。
5. 全体は部分より大きい。

公準
1. 任意の点から任意の点へ一本だけ直線を引くことができる。
2. 有限な直線を連続的に直線に延長することができる。
3. 任意の点を中心とする任意の半径の円を描くことができる。
4. すべての直角は互いに等しい。
5. 直線が2直線と交わるとき,同じ側の内角の和が2直角より小さいなら,この2直線は限りなく延長されたとき,内角の和が2直角より小さい側において交わる。
 最後の公準は「平行線の公準」と呼ばれ、プレイフェアー(Playfaire)の次の表現がよく使われている。

直線が与えられ、その直線外の一点から元の直線に平行な直線を正確に一本引くことができる。

 以上の事柄が『原論』のユークリッド幾何学の公理系として通用している内容である。