団塊世代が過ごした信じ難い自然と今の自然

 田舎に移住しようとする人が考える移住先の生活は自給自足、あるいはそれに近い生活なのだろうが、それが大域的、集団的に行われていた時期があった。それは団塊世代が10歳ほどになるまでの約10年間の田舎。今田舎に移住したいという夢の中身は何と多くの団塊世代がほぼ無意識に、受動的に享受したものに近い。

 これからの話は団塊世代の私が感じたほんの僅かな時間の中身。その話とは団塊の世代が最後に経験した日本の自然とそこでの経験。田舎の団塊世代のかけがえのない共通の記憶でもある。戦争に敗れ、戦後の経済成長が始まるまでの短い期間、日本には僅かな空白があり、農地解放によって自作農になった農民が戦前の農業スタイルのまま農作業をスタートさせ、それが軌道に乗るまでの期間である。その後、日本の農業は機械化と農薬によって急速に変わっていく。その間の日本の自然を経験した最も若い、そして最後の世代が団塊の世代だった。

 何が奇跡かといえば、自然が生きていたことである。田畑には昆虫や雑草が溢れ、そこは生命力の展示場だった。生命の賑わいのためか、子供の私が一人でいても寂しいと感じるよりは、うるさいと感じるほどに命がここそこに満ち溢れていた。命の賑わいを子供でも十分に感じ、堪能できた。まさに湧き出し、こぼれ落ちるような命の軌跡が行き交っていた。それは田畑だけでなく、里山も同じだった。最も里山の方は私が成人する頃まで大きな変化は目立たなかった。

 バッタ、タニシ、ドジョウ、カエルたちが密集していたのが田んぼ。子供の私には田んぼはイネを栽培するところというより、そんな小動物が賑やかに生きるところだった。水が張られた田んぼには水生の生き物が、イネが刈り取られた後でも陸生の生き物が入れ代わり立ち代わり生き続けていた。田んぼの横の畑にはナスやキュウリ、トマトやピーマンと一緒にやはり生き物が棲みつき、昆虫や小動物の豊かな動植物圏になっていた。地球は何と豊かなのかを子供でもしっかり実感できた。

 そんな自然に対する実感は夢のまた夢で、今の日本ではどこにもそのような世界は見つからない。だから、それは奇跡でしかなかったのである。その奇跡を体験し、実感し、記憶に刻んだのは団塊の世代が最後。それゆえ、団塊世代はそんな豊かで生き生きした自然の記憶を語り継ぐという役割を担っている。団塊世代が子供だった頃の体験、それは豊饒な日本の自然だった。

 ところが、どこにもいたドジョウが姿を消し、田んぼに溢れていた命は農薬によって一掃されてしまう。実に見事な大量虐殺で、農薬が日本の農業どころか、自然を変えてしまった。子供は自然には敏感で、自然の変化を肌で感じる。パラチオンが田んぼにまかれ、DDTを髪の毛にかけられるだけでなく、現在より遥かに毒性の強い農薬が大量に使われ、自然はすっかり壊され、変わってしまった。

 さらに、田んぼで仕事をしていた牛はあっという間に耕運機に代る。牛のための朝の草刈りと、それを背負って運ぶ人の姿に朝日が当たる、それは自然と一体になった奇跡の風景だった。耕運機から自動車まで、今では田舎は車で溢れている。

 これまでの話は団塊の世代以後の人には信じたくても信じることができないような夢の話。幸福な団塊の世代が、リヤカー、井戸水、囲炉裏などと共に暮らした奇跡のような一瞬の話である。

 管理される自然はつまらない。命が輝き、うるさく騒ぐ自然があっという間に静かになってしまった。静かになってからの田舎の変化を団塊世代の私は知らない。50年以上田舎で暮らしていない私には静かになってしまってからの田舎の自然の変化の経験が抜け落ちている。小動物が消え、人が支配、管理しやすい自然に変えられ、それによって自然がどのように反応していったかを私は体験的に知らないのである。通りから人が消え、人がすっかり減ってしまった今の地方の町のように、自然はすっかり寂しくなってしまったというのは実は私の想像でしかなく、町の衰退と自然の沈黙に相関関係があるというのは私のいい加減な推測に過ぎないのである。それでも、私の子供時代の記憶の中の自然とは異なる自然になって久しいというのもまた確かなことで、いつの間にかシカやクマが当たり前に出没する自然になってしまった。

 中学生から高校生まで夏になると山林の下草刈りをやらされた。大きな鎌を振るって草を刈りながら、ハチやアリに出遭い、ヘビやカエルに驚いたものだが、下草が刈られ、風通しの良くなった樹々が風にそよぐ姿は本当に心地よさそうに見えた。命溢れる田畑ほどではなかったが、自然の中の植物の生命力は強烈に感じることができた。青葉若葉が輝いていた。そして、すっかり変わった田畑に似て、時々山道を歩くと、手入れのされていない山林が眼前に広がり、下草が蔓延っているのだ。

 一方で、自然を巧みに利用して私たちは多くのものを手に入れた。それらは幸福と呼ばれ、成功と捉えられ、私たちに降伏し、犠牲となった自然は沈黙したままだったことから、団塊世代は自らの奇跡の体験を忘れていった。団塊世代が経験した自然を復活させることはもはや無理でも、自然からのシグナルが死に絶え、亡くなった訳ではない。小動物が消え、その代わりではないだろうが、大きなシカやクマが増え、それらが人里に顔を出すのも自然からのメッセージなのではないか。では、自然は一体何を伝えたいというのだろうか。私にはそれがよくわからないのである。だから、私たちは過去の記憶や記録を無視することなく、丁寧に自然の変化を掴み、自然を知り、そのメッセージを解読する必要がある。自然が何を訴えているか知るには自然をより丁寧に知らなければならない。そして、私にとってそのための出発点となるのが団塊世代の奇跡の経験。それを原点にして、現在までの自然変化を丁寧に理解するしかないと思っている。

 とはいえ、私たちが私たちのために自然を利用することを優先し、それが自然に対する膨大なハラスメントを蓄積し続け、それが自然を支える地球までも壊し続けてきたことはほぼ明らかで、それこそ人の宿命なのだと肝に銘じる時なのかも知れない。