人が作った具体的な像で、特に神や仏などをかたどったものは偶像と呼ばれ、崇拝の対象となってきた。神や仏の存在は証明するものではなく、直接に知る、感得するものだとよく言われる。だが、それができる人は僅か、あるいは仮にできたとしてもそれをきちんと万人に伝えることができる人はまずいない。少なくとも私は知らない。何かを表現することは私たちの本能で、その表現手段は絵、音、そして言語や動作と多岐に渡り、意識する、思考する、意志する際には表象が伴うのが普通で、何かを意識する際にはその何かを具体的に表現(=表象)することになる。このような私たちの思惟の本性は偶像崇拝の禁止と衝突する。自らの信仰を確かなものにしたいと思えば、信仰の対象を具体的に心に刻み、掴むのが私たちである。
だが、歴史はその私たちの本性を偶像崇拝と呼び、禁止した。旧約聖書では、イスラエルの神は預言者モーセに神の指で書かれた石の板二枚の十戒を授け、偶像崇拝を禁じた(出エジプト記31:18)。だから、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教では偶像崇拝が禁止され、神を偶像化できないことになっている。釈迦も偶像崇拝を禁止している。
キリスト教では旧約聖書の記述から神を可視化してはならないのだが、イエス・キリスト(=神)と聖母マリア、聖人、天使などの偶像がつくられ、それらを崇拝することが広く受け入れら、東方教会ではイコンが拝まれてきた。
イスラム教では、神の偶像をつくり、崇拝することは禁止。古くから仏教とイスラム教がせめぎ合ってきた西域では、ほとんどの石窟寺院で仏教壁画に描かれた仏の顔が剥ぎ取られ、仏教遺跡に残る仏像には首がない。神である「アッラー」は、一切を超越した全能の存在。アッラーには姿形はなく、ただ意思のみがあって、それが様々な現象としてこの世に顕現するとされる。
日本の神道も神を人間の目に見えるような具体的な存在とは考えず、姿形のない全能の存在と考えられていた。神道の神は、この世の創造主であり、さらにいつでも、この世にあまねく存在し、様々な「現れ」を示す。その「現れ」はほんの些細な動き、例えばそよ風に揺れる草や虫の鳴き声などにも感得ができる。「八百万の神」という言葉が端的に表わすように、神は数え切れないほど無数に存在する。
さて、能書きはやめて、偶像を見てみよう。私たちの周りは偶像だらけ。偶像に囲まれて生活しているのが私たち。偶像を生み出すのに躍起になる人たちと、偶像に左右される人たち、正に浮世は偶像の世界。現代の偶像の典型はアイドル、そしてスーパースター。偶像こそこの世界に欠かせないもの。だからこそ、先人はその偶像を禁止し、禁欲生活を求めたのだろう。だが、暫しその禁欲を破って、偶像を称え、楽しもう。そして、私たちを突き動かすものの一つが偶像であることを実感しよう。