ペットが自由に飼えるマンションに移って久しい。エレベーターを使うと、人だけでなく犬たちもエレベーターに乗り込んでくる。色んな犬に驚くのだが、ほぼすべてが小型犬で、それも不自然な姿格好の犬たちなのである。人間より速く歩ける犬は少なく、たいてい歩くことが不得意である。人間の介護がなければ生きていけない犬ばかりという印象で、私にはどこが可愛いのか、何が癒しになるのか、よくわからない。現在飼われている犬たちは自然選択の結果ではなく、人為選択の結果であるから、浅はかな人間の欲と都合の犠牲なのだと嘆くしかないのだろうか。人間には美形でも、自然の中では奇形としか思えない犬たちが溢れている。これがペットの犬に対する団塊世代の我が偏見である。
私が生まれ育った妙高には今の人たちがペットにしたいような犬はいなかった。よく吠え、子供を威嚇する犬が多く、実際に何度か襲われた。雑種で中型、赤毛の犬が多かった。私の家にはメスの猫が私用のペットとして飼われていた。兄弟のいなかった私には仲間のような存在で、家では行動を共にすることが多かった。とはいえ、そこは猫と子供、彼女の行動は私からは独立していて、夜は鼠取りに忙しそうだった。
昭和の20年代の代表的な家畜となれば、私には牛である。牛は農耕用の家畜として私の近所の農家では何頭も働いていた。ペットと違って一家の働き手であり、精神的な癒しではなく一家の経済活動を支える重要な一員だった。そのためか、随分と大切に扱われ、牛小屋は総じて綺麗であり、食事も新鮮な草、加熱された穀物が与えられ、仕事の後には水浴で綺麗に洗われ、いつも清潔だった。これは一緒に飼われていた山羊や鶏とは大きな違いだった。それだけ家計に貢献していたからなのだろう。朝早く、朝露で濡れる草を刈り、それを牛や山羊に食べさせていた光景が今でも鮮やかに残っている。
我が家には牛はおらず、鶏が10羽ほどいた。鶏は残飯を中心にした雑食で、何でもよく食べていた。卵の搾取が目的であり、なぜか卵を産まない雄鶏が一羽、群れの統制のために飼われていた。この雄鶏が私のような幼児をからかうのが好きで、日中庭に放し飼いにされていて、私が通ると、よく追いかけられ、突っつかれたものである。
鶏は卵だけでなく、その身も私たちの食用として役に立つ。祭りの前日には年老いて卵を産めなくなった鶏が絞められ、祭用のご馳走の材料となった。子供の私には雌鶏を絞めるところから、解体するところまでが解剖実験のごとくに興味深いものだった。毛を除いてほぼすべてが料理の材料になる。雌鶏の身体の構造を自分の眼で確かめ、卵が管の中に一列に並んでいる様など、目を見張る体内の光景だったことが思い出される。
私の祖父もペットを飼っていた。当時は道楽の一つと呼ばれていた鶯を家で飼い、その鳴き声を自分の家で楽しもうという訳である。鳥かごをさらに木箱に入れ、光と音を調節し、餌も葡萄の枯枝に潜む生きた幼虫とすり餌を毎日与えるという、とても手のかかるペットだった。確かに早春に家の中で鶯の声を聴くというのは贅沢なのだろうが、山中で自由にさえずる鶯を想うと、不自然さは否めなかった。
心の友になれるが、いなくても構わないペット、必要な助っ人どころか時には生活の糧そのものである家畜、これら二つの異なる動物の存在は私たちの生活をどのように変えてきたのか考えると、家畜とペットを共に必要とする生活の方がいずれか一方の生活より数段優れているように思えてならないのである。家畜、ペット、そして人との共同体だった昔の田舎はその優れた例だったのかも知れない。
確かに、家畜とペットの差はとても僅かでも、その差は大切なものだったというのが老いた私の思い出である。団塊世代の子供時代の田舎は家畜とペットが見事に棲み分けられ、共存していたのである。