立葵、鶏冠、そして鶏

 立葵の花について記しましたが、その花弁の付け根の部分をシールのようにはがすと、そこは粘着性があり、肌に張り付きます。それが赤い立葵なら、張り付いた花弁は鶏の鶏冠(トサカ)のように見えます。そのため、立葵はコケコッコ花とも呼ばれてきました。

 その鶏冠が私の記憶を蘇らせ、立葵が街の中の庭や軒先に植えられていた姿が浮かび上がり、さらには鶏の記憶もそれに続くのです。昭和30年代前後はまだ家畜が多く、豚、山羊、鶏などが家々で飼われていました。我が家にも豚と鶏がいて、鶏は常に10羽ほどいました。昼間は納屋の鳥小屋から前庭に出されていました。雌鶏の中に雄鶏が一羽いて、子供の私はその雄鶏に追いかけられ、よくつつかれました。残飯はじめ、野菜もよく食べ、卵も日に数個は産んでくれていました。私はその卵を白いご飯にかけて食べるのが大好きになっていました。

 我が家で飼っていた鶏はすべて白色レグホンで、伊藤若冲が描く鶏とは大違いです。鶏冠から若冲の鶏も思い出したのですが、私が若い頃は「伊藤若冲」という名前さえ知られていませんでした。私は先輩の美術史の教授から彼の絵を見せられ、ショックを受けた一人で、酒を飲むと若冲の話をよく聞かされました。そんなことで、私の記憶の中の鶏となれば、祭礼の前に絞められ、ご馳走に供される老いた雌鶏と、若冲描く見事な鶏冠と羽をもつ群鶏との二つが抜きんでているのです。

 家畜の鶏についての私の記憶は随分と薄れたのに対し、若冲の鶏の記憶はまだ色褪せていません。二つは私の記憶の中でそれでも仲良く居場所を確保しているのです。

*画像は伊藤若冲の「動植綵絵(どうしょくさいえ)」の中の「群鶏図」です。1761-65年頃の制作で、宮内庁三の丸尚蔵館所蔵です。

 若冲が執拗に描いた日本の鶏は主に観賞用や闘鶏用として飼われてきました。そもそも日本に鶏はおらず、朝鮮半島経由で伝来し、弥生時代後期には地鶏の祖先が飼育されていたようなのです。その後、中国から現在の「小国鶏(ショウコク)」、江戸時代にはタイから「大軍鶏(オオシャモ)」、ベトナムから「矮鶏(チャボ)」、中国から「烏骨鶏(ウコッケイ)」の祖先がやってきました。日本人はそれらをもっぱら観賞用として珍重しました。盛んに鶏が飼育されたのは江戸時代の後期です。その頃はアサガオツツジの栽培、鈴虫や金魚などの観賞用生物の飼育が盛んに行われていました。金魚や朝顔などの品種改良が進み、色や形の異なる新品種を楽しみました。当然、鶏も新品種がつくられました。

 明治維新以降、日本人が鶏肉を食べるようになると、観賞用の鶏は徐々に衰退していきます。さらに、1960年代以降アメリカからブロイラーがもたらされると、鶏肉はあっという間に庶民の味になりました。

 こうして、私の中の鶏は、卵を産む鶏、鑑賞用の鶏、肉用の鶏の順に整理され、それらが仲良く記憶されているのです。