私の「ふるさと」

 多くの人が哲学は妄想だと思っているなら、これからの話は妄想でしかありません。

 異郷を知らない人には「ふるさと」は存在しないのでしょうか。アイデア、観念だけの異郷は今風に表現すれば、情報としての異郷、あるいは異郷の情報と言うことになるでしょう。異郷についての情報の中には異郷の存在が当然含まれ、自分のいる「ふるさと」と同じように異郷があることが含まれています。確かな情報を私たちは知識と呼びますが、異郷の知識は異郷の存在を証明しています。それゆえ、異郷情報によって人は「ふるさと」を疑似体験できます。それは「ふるさと」を異郷の一つとして想像することでもあります。子供が成長して自らを意識し、その存在を自覚し始めると、子供は世界観や人生観に目覚めます。「ふるさと」の情報や知識だけでなく、脱ふるさと化された普遍的な情報や知識にも接することになります。

 人が自意識をもつと、意識の時間化、空間化が行われます。時間化は過去、現在、未来と世界を分割化しますが、空間化はふるさととそれ以外の地域に分割化されます。「いま、ここ」で表現される現在の居場所を座標軸にして世界が表現されます。時空の違いを具体的に考えてみましょう。

 情報や知識はふるさと化と脱ふるさと化を共に可能にする装置、方法です。それはどのように使われ、認識を可能にするのでしょうか。

 「私はいまここにいる。」という文は偽になるでしょうか。私自身がこの文を発話した場合、それを否定することができません。とはいえ、私がこの文を発話しない、発話できない場合を簡単に想像できます。この文は発言者にとっていつも真になります。しかし、「君はいまここにいない。」と私は簡単に言うことができます。さらに、私は「私はいまここにいないと想像できる。」ということもできます。さらに、「私がいま別の場所にいると仮定しよう。」、「私は君で、いまここにいないとしてみよう。」と発言することもできます。私は知識、想像力、教育、情報などによって上の各文が真であるような世界を考えることができます。

 ふるさとを一歩も出なくても、カントのように異郷や他世界を存分に考えることができます。それを可能にしているのが私たちのもつ知識とそれを認識する能力です。認識し、考える能力によって私は「ふるさと」をもつことになるのです。これが私の「ふるさと」所有の経緯です。