宗教の正しさは絶対的?

 ここでは宗教の正しさを宗教の教義の正しさとしておきましょう。ヨーロッパの文学や芸術の多くがキリスト教の教義が正しいことを前提にしています。つまり、創造主としての神の絶対性と神とキリストと聖霊の三位一体が正しいことを基礎に自然、社会、精神、文化等が構想され、描かれてきました。見事な言語表現の多くがこれらの前提の下で作られ、解釈され、語り継がれてきたのです。ヨーロッパの文学や芸術の表現の多くがキリスト教の教義が真であるという枠組みの下で作られてきたのです。

 これはヨーロッパだけのことではなく、日本でも神道や仏教の教義を正しいものと認め、それを前提にして自然や人間を巧みに表現してきました。そして、諸行無常の世界を認め、その中での人々の葛藤を巧みに表現することが文学、演劇の中心課題になり、能、浄瑠璃、歌舞伎などを生み出してきました。

 さて、生意気な中学生なら宗教の正しさなど迷信に過ぎないと主張するに違いなく、無神論を振りかざすことでしょう。神道も仏教もこの中学生から見れば、迷信の塊のようなもので、アニミズム神秘主義という原始的な思考の典型だと言うのではないでしょうか。キリスト教の神は唯一の神で、世界の創造主だという教義はビッグ・バン理論の主張とは明らかに異なっています。マリアが処女懐胎によってイエスを身籠るというのも生物学の知識からは考えられないことです。

 そこに登場するのが二重真理説。相矛盾する二つの言明が、一方が哲学の原理で真であれば、真理であり、他方も宗教教義として真であれば、共に真であるというというのが二重真理説です。アリストテレスの研究をしていたイスラムの哲学者イブン・ルシドは、神への信仰は哲学の理性に従属すべきだと説き、やがて「信仰にとっての真理」と「理性にとっての真理」は別次元のものであるという「二重真理説」がラテン・アヴェロエス派によって誕生し、それがパリ大学を中心に広がります。でも、この勢力はキリスト教教義や神学に対するアリストテレスの哲学の優位を主張したため、神学の哲学に対する優位を絶対視する伝統的神学者や教会から断罪され、キリスト教会からは度重なる異端宣告を受けることになりました。トマス・アクィナスキリスト教の「信仰」とギリシャ哲学の「理性」との調和を目指しました。彼によれば、「自然の光(理性)」によって私たちは真理を類推することができても、これには限界があり真理そのものに到達することはできません。そこで、「恩寵の光(神の啓示)」によって、私たちは類推の先にある真理に到達できると主張したのです。

 このようなトマスの調停も生意気な中学生には通用しません。宗教の知識と科学の知識のどこがどのように違うのか、彼はまだ納得のいく説明を一度も受けたことがないからです。これは文系の人たちも同様です。彼らが優れた宗教文学の中にその説明を見出したという話を中学生だけでなく私も聞いたことがないのです。