権力や権威に背くことは何も若者の特権ではなく、人のごく普通の権利。「背く」ことは一級の快感であり、その味は麻薬や媚薬の如く人々を虜にする。革命とは既存の体制に背くことであり、異端そのもの。だが、そんな異端への陶酔は実は幻想でしかなく、正統も異端もファッションのようなもので、衣を剥げば何ら違わないことだらけで、心理的な錯覚に過ぎないかも知れない。正統の退屈さも異端の魅力も目くらましに過ぎないのかも知れない。
神話、宗教、科学といった区分を今の私たちの常識で理解し、そのまま古代に目を転じるなら、頭の中は今の常識のままで、それを使って古代を眺めるため、正統や異端という区別がそのまま古代に投影されてしまう。ローマ・カソリックが正統だという今の常識で古代を見るなら、それ以外の宗教教義はすべて異端にしか見えないのである(仏教徒ならキリスト教もイスラム教も異端だと糾弾してもいい筈なのだが、そこは妙に寛容なのが逆に気になる。原始仏教にもギリシャやローマの影響が相当見られる)。
宗教、神話、科学の間の違いを近代的にではなく、古代に引き戻して考えるなら、それらの近代的な区別は一切無視して考えることができる。宗教、神話、科学の垣根はなく、知識と信念の区別さえ明瞭でないと考えるが適切なのだろう。そんな状況では当然何が正統で、何が異端かなどという問いは最初に立てられる問いではなく、権力争いが決着した結果として得られるものでしかないのである。
そんな一例として、悪名高き(?)キリスト教グノーシス派を眺め直してみよう。今から2000年前、キリスト教正統派は「唯一絶対の神が世界を創造し、キリストは人間の罪を背負うため降臨した」と説いたが、キリスト教グノーシス派はそれを否定。正統派はグノーシス派を異端として糾弾し、その書をすべて焼き捨てた。キリスト教の教義の基本は二つで、天地創造の物語とイエスの言行録。グノーシス派によれば、この世界を創造した神(旧約聖書の神ヤハウェ)は唯一絶対の神ではなく、全能ではなく、無知で傲慢な神に過ぎない。全知全能の神が争いや災いが溢れる世界をつくる訳がないというのがその理由。
正統派によれば、人間はアダムとイブの原罪を継承し、神の赦しがない限り消えない。悔い改めて福音を信じれば、救済されることになる。だが、グノーシス派によれば、この物質世界は私たちを肉体に閉じこめており、私たちにとって救済とは、この物質世界から逃れ、天の家に還ること。そのためには、真理を「知る」ことが不可欠。また、正統派によれば、イエスはこの世界を創造した神の子で、人間の罪を背負うために降臨したのだが、イエスはこの世界を創造した神の上位にあり、秘密の知識を授けるために降臨したとグノーシス派は主張する。
このように両派の主張は随分異なる。グノーシス派は「知識」を重視し、正統派を批判しが、正統派は教会の権威を高め、精神世界を支配しようとした。旧約聖書と新約聖書はそのためのマニュアル。だが、グノーシス派はそれを否定した。このグノーシス派の思想が長い間キリスト教グノーシス派と考えられてきた。ところが、1945年に発見された「ナグ ハマディ文書」の中には、ユダヤ教、キリスト教とは無関係のグノーシス文書も含まれていた。このグノーシスの芽がキリスト教に向けられて、キリスト教グノーシス派として具体化したらしい。その芽は紀元前4世紀ギリシャの「プラトン哲学」にまで遡ることができる。
神秘主義の原点となったプラトン哲学では、物質界の上にイデア界がある。イデアとは、永遠不滅の本質であり、究極まで抽象化されたもの。そのため、変化する、劣化することもない。一方、私たちが住む物質界は、デミウルゴスがイデア界をひな形にしてつくり出したもの。つまり、イデア界はテンプレートで、物質界はその実現。神秘主義は物質より霊に重きをおくが、プラトン哲学がその原点。
古代ギリシャ・ローマの時代、科学と宗教は共存共栄していた。ところが、キリスト教が浸透すると状況は一変。科学と宗教は鋭く対立し、科学は「疑う」ことで知識を獲得し、宗教は「信じる」ことで信仰を守った。プラトン風には究極の目的が「真理の追求」にあるのに、袂を分かってしまった。真理を極める方法、態度として、宗教は「信じる、信仰」を、科学は「知る、知識」を採用したのである。
グノーシス主義はプラトン哲学が起源。人間は感覚によってイデアを認知できないが、理性を通してなら可能である。イデアは世界の設計図であり、理性を介して知ることができる。プラトンのイデア論がグノーシス派の思想に取り入れら、グノーシス主義は偽りの物質的な世界と真実のイデア的な神の世界という二元論を採用し、イデアを知ることによって神の国に帰還できると説く。そもそも、グノーシス(Gnosis)は、古代ギリシア語で「知識、知ること」を意味する。グノーシス主義は、キリスト教のみならず、他の宗教にも大きな影響を与え、例えば、マニ宗教はグノーシス主義こそ正統の教えとして受け入れたのである。
新約聖書によれば、ユダの最期は悲惨そのもの。ユダは非難され、罵倒される。新約聖書によれば、イエスは神の子。もしそうなら、神の目ですべてお見通し、ユダの裏切りも予測できたはず。イエスの教えは絶対的な愛であり、どんな崇高な目的があったにせよ、自分の弟子を貶めるはずがない。もちろん、イエスがユダに騙されたのなら、イエスは神の子であることに矛盾する。全知全能の神の子が、人間ユダに騙される訳がないから。
宗教、神話、科学、哲学の間の関係を見直す際に、互いの間の擬似的な類似性や真偽、そして正統、異端の区別など、山ほどの魅力的な課題が集まっている。宗教、神話、科学、哲学が未分化の世界で、知るや信じるはどのような概念なのか。例えば、日本の神話に対するグノーシス的な反神話があるのだろうか。