文系の人たちからの生意気な中学生への常識的な反論

(昨日の投稿への反論)

 常識や良識は普遍的ではなく、時代と共に変化してきました。つまり、いつでもどこでも常識や良識が正しいことはなく、状況依存的なのがその特徴なのです。大昔の常識は科学的ではありませんでしたし、今でも科学的でない常識や良識はたくさんあります。倫理や道徳、法や正義の多くは今でも科学的ではありません。

 常識、良識は正しいと認められていても、科学的とは限らず、相対主義的なものだと思われてきました。科学主義は(ニュートンによる)科学革命後に成り立った考えに過ぎなく、限定的であり、将来もそのまま成立するかどうか誰にもわかりません。文学、芸術の制作や解釈、受容や理解には科学主義より、常識や良識が使われてきました。でも、常識や良識の中身を突き詰めると、終には曖昧になり、科学的な真理とは相容れない場合が数多く出てきます。

 「無限」に関する常識と、数学的な「無限」は20世紀に入ると大きく変わり、今では数学的な無限概念が半ば常識として受容されています。ですから、無限に関する古い常識や良識と新しい無限概念が食い違う場合があり、それが中学生を生意気な若者だと思わせているのです。無限概念の数学的内容は通常は大学に入って学ぶものですから、21世紀の今でも古い常識、良識が通用していて、それによれば石川五右衛門の辞世の句は十分に理解できる内容なのです。でも、新しい無限概念を知っている生意気な中学生には納得いかない句なのです。

 文学や法律、倫理や道徳は科学主義を認めながらも、それによって裏打ちされていない常識や良識に基づく、つまり生活世界の真理に基づいている場合がたくさんあります。それは科学的な真理と暫定的に両立する仕方で通用していて、地域、歴史、文化に応じて相対的なものにならざるを得ないのです。普遍性を求める科学知識に対して、常識や良識は局所的、暫定的なのです。とはいえ、多くの人に受容され、社会に普及していて、多数派の考えとなっていて、それゆえに正に常識なのです。

 でも、常識と非常識は紙一重の場合が多く、それゆえ、普通の小説はしばしばSFの領域にまで足を踏み入れ、相互貫入が当たり前に起こっているのです。つまり、常識や良識の内容は実に融通無碍なものなのです。とはいえ、常識、良識という装置はほぼ不変で、これからも通用していく筈です。