縁は仏教の「縁起(えんぎ)」に由来し、縁起は因縁生起の略で、何事に原因があり、繋がりがあるという考えです。日本人は元来集落での生活を重視し、個人よりも集団を大切にしてきました。人々は互いに関係し合い、夫婦であれ友人であれ、縁で繋がっていると考えていました。血の繋がりに基づく「血縁」や、住む土地の縁を指す「地縁」はそれをよく示しています。そのような縁の一つが宗教的な共同体です。かつての一揆はその典型ですが、縁を示す別の典型としてカトリックの共同体の一面を瞥見してみましょう。聖母マリアの縁は空海や親鸞の縁につながるものです。
カトリック教会という共同体(キリスト教を縁にした信者の集まり)の中でのアリアの地位は次第に認められていくのですが、その決定は教義を付加することによるものでした。
世の女性の代表の一人は聖母マリア。そのマリアの地位はキリスト教の中でも徐々に向上してきました。聖母マリアには、神の母、処女懐胎、無原罪の御宿り、聖母被昇天の四つの教義がこれまで決定されています。このうち始めの二つは大昔に決定されたものですが、後の二つは比較的最近になって決定されたもので、カトリック以外の宗派では認められていません。
(1)4世紀の初め、既にマリアは「神の母」と呼ばれていましたが、神学的な論争が続いていました。肉体を悪とみなし、知識のみを通じて肉体からの救いを求めるグノーシス派、キリストの身体はこの世を超越したもので、キリストはマリアの胎内を素通りしてこの世に現れたと考えるバレンティヌス等々、マリアの母性を素直に認めない人たちがたくさんいました。例えば、コンスタンチノープルの司教ネストリウスは、マリアをイエスの母とは呼んでも、神の母とは呼んではならないと主張しました。
教会は伝統的な神学に基づいて、431年のエフェゾでの公会議でマリアを「神の母」と宣言します。マリアが神の母であると言われるのは、イエスがマリアから生まれることによってマリアと同じ人間性をもったからです。マリアは神である子に人間性を与えた母親です。ですから、マリアなくして神人イエス・キリストは存在しないのです。これが、マリア信心の最も基本的な理由です。
(2)マリアは天使のお告げに対し、「私は男の人を知りませんのに(ルカ1:34)」と答えていて、マタイ福音書もそのように語っています。重要なことは、マリアは聖霊によってイエスを宿したということです。
この二つの教義は、形はマリアについての教義ですが、内容はキリストについての教義です。イエスは聖霊によってマリアの胎に宿ったのであり、その存在の始めから人間であるとともに、神でもあったのです。
(3)無原罪の御宿りの教義は、1854年ピウス9世によって決定されました。無原罪の御宿りは、よく誤解されるのですが、聖母が無原罪でイエスを宿したということではなく、マリア自身がその母アンナの胎に宿った時から原罪の汚れを免れていたということです。中世では、マリアがどの時点で原罪から洗われたかについて色々な意見がありました。でも、教義決定されたことによってこの論争に決着がつきました。
(4)聖母マリアの被昇天の教義は1950年ピウス12世によって決定されます。この教義も、無原罪の御宿りと同様、聖書には何も述べられていません。マリアに対する敬虔な信心から生まれた教義で、19世紀以来この信心を教義として決定して欲しいという要望が各地からローマに寄せられました。これに対して、ピウス12世は世界中の司教に教義を決定することの是非についてのアンケートを行い、教義決定を下しました。
全ての信者は洗礼によって原罪から洗われていて、終末においては全ての人は身体と霊において復活するのですから、マリアの被昇天はその先取りに過ぎません。ですから、彼女の地位向上は信仰をもつ者すべての将来の地位の先取りであり、保証なのです。
*画像はエル・グレコ「無原罪の御宿り」(1607-13)