血縁、地縁、そして、無縁:老人の愚痴

 久し振りに年末年始を故郷で過ごす人々の大移動が始まり、人々は血縁や地縁による絆の一時的な確認を経験することになる。コロナ禍を通じて、人口減の日本社会では孤独死児童虐待、DV、離婚、貧困などが毎日話題になり、そんな社会現象が人と人との絆のない「無縁社会」の到来を不気味に予感させてきた。そんな予兆の中で、故郷に向かう人々の群れはまとまりを欠いた烏合の衆にしか見えないのである。

 単身の人々が増加した理由は、産業構造の変化による地域間の労働移動、年金制度の発展により経済的に独立できる体制の整備、自由主義個人主義が広がり、核家族が日本人の望む生き方になったこと、「共同体」意識が希薄化し、国民の所得水準が高くなり、家計を独立して運営できるようになったこと、平均寿命が伸び、同居が減っていること等々が挙げられてきた。そのような状況のなか、単身者たちは孤独死や年金、医療費、介護費用の不安や孤独を感じて生きている。

 結婚しない、子どもを持たない若者も増加している。出生率の上昇に重要な点として、子育て費用や教育費の負担軽減、働く女性の子育て支援、男性の意識改革、子どもを安全に育てられる環境づくり等が挙げられている。また、一度家族を形成した人が離婚や家庭内暴力で単身者に戻るケースが増えていることや離婚に対する意識の変化があり、子育てでは育児放棄児童虐待といった問題が生じている。

 「無縁社会」になる前の日本には、血縁や地縁によって結びついた共同体が存在していた。共同体は共通の特性を有する人々の間での助け合いである。血縁の典型は家族であり、戦前までに見られた大家族、家父長制も血縁の具体例である。だが、家族の変化により血縁の範囲は極端に狭まっている。

 かつては故郷が地縁と重なっていた。その地縁の最小単位は同じ地域に住む近隣の家をまとめた社会組織であり、まだ残るのは町内会だが、現在の町内会は各家庭の中まで入り込むことはない。社縁意識は終身雇用や企業福祉によって高められ、企業にとっても優秀な人材を確保できるというメリットがあったが、日本経済が長期の停滞期に入り、コロナ禍を通じて社縁は崩壊しつつある。

 無縁仏は各地に残る歴史的遺産と受け取られてきた。その無縁仏こそが今後の日本社会を象徴しているようで、「そして、残ったものは無縁仏だけ」という未来像が妙に現実感を増しているのである。自由社会の個人主義の結果が無縁仏ではない筈なのだが…