お墓

 釈迦は弟子に死後の遺骸の処置を問われ、僧侶は遺骸の供養など考えず、真理追求に専念すべきだと答えました。飛鳥時代に仏教が日本に伝来し、鎌倉時代には庶民層にまで広まり、庶民の間で仏式の葬儀が行われ始めます。檀家制度は人に一つの寺院を菩提寺としてその檀家となる事を義務付け、日本仏教が葬式仏教になる大きな転機となりました。

 先祖供養や墓参りが仏教本来のものというのは実は錯覚で、毎年のお盆の行事も、釈迦の教えとは無関係です。仏教は釈迦の悟りがスタートで、その教えの基本にあるのが「輪廻思想」。釈迦は生・老・病・死の「四苦」を人間の宿命と考え、この世に生きることを苦しみと捉えました。仏教の最終目的は、悟りを得て輪廻から抜け出すこと。人が悟りを得て解脱するための修行は輪廻から抜け出す手段なのです。

 釈迦は輪廻を認めながら霊魂の存在を認めなかったために、弟子たちの間に混乱が生じるようになり、釈迦の死後、難解な解釈が数多くつくられることになります。肝心な点は、釈迦は輪廻思想に基づき「死とともに肉体は単なる抜け殻になる」と考えていたということです。抜け殻の死体は無用ですから、火葬にして捨てて構わないことになります。

 仏教では、人は解脱して成仏するか、輪廻転生という苦しみの中にいるかのいずれかしかありません。すると、私たちの先祖が成仏していなければ、死後49日を経て、別人として人間や動物に生まれ変わるということになります。既に生まれ変わっているのですから、当然「先祖供養」などナンセンスですし、本人は別の存在として新たな肉体を持って生まれ変わっているので、抜け殻である肉体や骨も無用のものであり、墓も必要ありません。

 ところが、日本人の信じる仏教では先祖供養と墓がきわめて大切なものとされ、信仰の中心となってきました。日本の仏教から先祖供養と墓を取り除いたら、何が残るのでしょうか。釈迦の説いた仏教と日本人が信じる仏教はまるで違っています。日本人は釈迦の教えに反した仏教を信仰してきたのです。でも、圧倒的大多数の日本人は、「先祖供養」と「死後の救い」を仏教に期待してきました。悟りを得られるなら墓など不要だと主張する僧侶はほとんどいません。仏教は本来的には悟り、解脱のための宗教ですが、それが死者の面倒を見る宗教に変わってしまったのです。釈迦は日本の仏教を自分の教えだと認めないでしょうが、日本には釈迦の教えと真っ向から対立する「先祖供養」を中心とした仏教が存在し、日本人の宗教的感情を育んできました。死への恐れ、不安に対して、日本人は先祖供養によってそれを解決しようとしてきました。先祖供養や墓参りを日本の仏教から取り去ったなら、仏教自体が消えてしまうでしょう。

 インド仏教が中国に入ってきたとき、中国では先祖霊を崇拝する儒教が強く人々の心を支配していました。そのため、仏教の輪廻思想と真っ向から対立することになります。なぜなら輪廻思想のもとでは、中国人にとって最も重要な先祖霊が存在しないことになり、先祖霊の崇拝自体が、意味をなさなくなるからです。儒教は、中国人の先祖霊崇拝、先祖霊信仰を基礎にした思想体系です。儒教は単なる倫理道徳だけではなく、底辺に「先祖崇拝」という宗教的要素を持った宗教でもあります。先祖霊への崇拝を土台とする儒教に対して、仏教側が譲歩し、輪廻思想とは全く無関係な先祖霊崇拝、先祖霊信仰を取り入れるようになります。その際、仏教側が考え出したものが「偽経(ぎきょう)」でした。新たに偽の経典をつくったのです。その代表が、『盂蘭盆経(うらぼんきょう)』と『父母恩重経(ふぼおんじゅうきょう)』。前者はお盆の行事の根拠となる経典で、仏教における祖先祭祀の合理化をはかったもの、後者は現世の孝を説く経典。これら偽経によって、インド仏教と異なる「儒教化した中国仏教」が出現することになったのです。

 儒教の影響を受けて大変身した中国仏教が、その後、日本に伝来。先祖霊を崇拝するのは中国人ばかりでなく、古代の日本人も同じでした。そのため、中国から伝来した仏教は日本古来の先祖霊崇拝と無理なく融合することができ、神仏習合となったのです。日本の仏教は、初めから先祖霊崇拝や供養・喪礼を強く前面に出したものでした。

 既述のように、日本人は遺骨=霊と考えますが、釈迦は霊の存在について何も言っていません。ですから、それを救うのが「浄土」で、阿弥陀仏の極楽世界など、死ねば浄土に導かれると説かれてきました。それを信じ、「南無阿弥陀仏」、「南無妙法蓮華経」などと一心に念仏を唱えていればよいと教えられてきました。

 死者は浄土にいて、手許の骨は「もぬけの殻(抜け殻)」でしかありません。それを拝んで供養した気になるのは残された者の死者への執着であり、死者には無関係のことです。では、遺骨をどうすればよいのでしょうか。捨てるしかなさそうです。江戸前期には、「土葬、火葬、水葬、野葬、林葬」の五つの自然葬がありました。最近は樹木葬や散骨に関心が集まっていますが、「自然葬」は新しいどころか、実は伝統的な埋葬法なのです。

 

 最後の審判の日に死者が復活するというのがキリスト教の教えです。それに従うなら、土葬を行うのが本来の姿ですが、土葬が禁じられている日本では火葬となっています。2016年にローマ法王は火葬を認めましたが、その場合でもキリスト教では亡くなった人は天に召されると考えるため、かならずしもお墓は必要ではありません。お墓を設けても、先祖代々をまつる日本の仏教とは違い、一人で一つの墓が基本で、家族の墓ではありません。

 日本の仏教では先祖を「仏」として崇拝し、お墓は「魂が眠る場所」だと考えています。このため、彼岸やお盆など決められた日にお墓参りや法要を行い、先祖代々のお墓を継承して守ってゆくのが慣習になっています。一方、キリスト教では死は新たな人生の始まりであり、死後の魂は地上に留まることなく、天国に召されると考えます。ですから、お墓は故人の魂が眠る場所ではなく、あくまで故人を偲び、思いを馳せる「記念碑」でしかありません。また、先祖を「仏」として崇拝する思想もありませんので、お墓で先祖の供養を行うという習慣はありません。             

 お墓についての考えの違いで想い出されるのは「千の風になって」です。メアリー・フライが詩の著作権を放棄したため、A THOUSAND WINDSパブリックドメインにありますが、最初の2行は次のようになっています。

Do not stand at my grave and weep;

I am not there, I do not sleep

新井満訳では、「私の墓の前で泣かないで下さい。そこに私はいません。眠ってなんかいません。」)

文字通りに読めば、仏教のお墓についての考えを明らかに否定する歌詞です。さらに、歌詞を読んでいくと「風=魂」のようなアニミスティックな歌詞が登場し、キリスト教の教えとも異なっています。でも、風や息がキリストの愛の比喩だと解釈することもでき、曖昧です。確かなのは先祖崇拝のお墓ではないことです。

 

 これまでの仏教のお墓とキリスト教のお墓についての話を比較しながら、いずれのお墓に入りたいか、あるいはいずれも入りたくないか、あなたの答えは如何でしょうか。また、樹木葬のような葬式についてはどう思いますか。