同じでない保護活動

 人の行動は利己的で、利害が伴うものがほとんどで、性善説では説明できないことになっています。そんな中で、性善説が採用されてきたのが環境保護活動。医療活動と並んで、人の善意がそのまま表れ、悪意は潜んでいないという建前になっています。
 人は「病原菌」をこの世界から抹殺することによって、病気を克服しようとしてきました。敵となる細菌は悪者で、容赦ない攻撃による絶滅が医学研究の目的となってきました。細菌類は人に害を及ぼす限りは悪の根源として絶滅の対象になってきました。
 一方、人に益となる動植物となれば、食料としての生物です。こちらは絶滅とは真逆で、増殖、品種改良を目指す試みが長年至上命令として実行されてきました。雑食で嗜好が多様な人は食を文化にまで発展させ、食べ物の追求を続けてきました。
 人に益にも害にもならないような生物についても、それらが益や害になる生物に繋がり、人にとって全くの中立的な生物となると、むしろ極めて少ないことに気がつきます。生物の進化を考えれば、どの種も互いにつながっているのですから。
 そこで、トキとライチョウの場合に目を転じてみましょう。トキと人の生息域は重なっていましたから、トキの方が人の生活の中によく登場していました。でも、ライチョウと人の関わりはほぼ皆無。また、ペンギンのように愛嬌があり、珍しいために動物園の人気者となる訳でもないのがライチョウ。野生の個体数は0で、動物園にしかいないとなれば、シロオリックス、ハワイガラス、クロスッポン、シフゾウなどですが、これらの動物は動物園で細々と生存していて、病院でしか生きられない人に似ています。それに比べれば、ライチョウはまだ自然に棲息し、個体群の存続が要注意という状態なのです。
 では、人と疎遠なライチョウを保護する意義は何なのでしょうか。生きることが善であり、生物種は絶滅すると再現不可能で、生物多様性に反する、という紋切り型の保護主張を横に置いて考えてみましょう。そうすると、ライチョウを人工飼育までして絶滅から救う意義は何なのか、改めて問い直したくなります。上記のほぼ絶滅種と同じ運命になると予想された日本のトキが実際に絶滅し、中国からのトキの移入、繁殖が行われました。その意義は何だったのか知りたくなります。
 そんなことを考え出すと、環境や分脈に応じて保護に対する温度差に気がつきます。保護の度合い、保護の質が異なり、人は環境や分脈に応じて異なる保護を採用してきたことがわかるのです。
<積極的に治療する保護>
 学名が Nipponia nipponで、新潟県の県鳥になっているトキが絶滅したことへの反応は集中治療そのもので、中国からトキを移入し、人工飼育を行い、放鳥するというものでした。これはトキの積極的復元であり、病気の完治を目指すことに似ています。それでも、日本では2003年に最後の日本産トキ「キン」が死亡し、生き残っているのは中国産の子孫のみとなりました。
<現状を維持する保護>
 ライチョウはトキと違って、人と共存していた訳ではありません。そのライチョウに対してもトキと同じような積極的な保護政策がとられるべきなのでしょうか。医療にも様々な方法があり、積極的な治療ではない、例えばホスピスのような(消極的な)保護も考えられます。絶滅が一方的に悪だと考えることを再考すべき時期でもあるのです。克明な記録の意味も変わり、将来に再生が可能な記録作りができ始めています。このような状況で、私たちの保護活動を再確認してみるべきだと思われます。
<共生しながらの在宅保護>
 「保護する」ことの基本は何なのか、「何のために、誰のために」保護するのか、を考え出すと、どんな生物にも同じ保護が通用するとはとても言えなくなります。それは「どんな患者にも同じ治療が通用する」ことが文字通り正しいから、「異なる患者には異なる治療をする」ことは必要ないと誰も考えないことと同じなのです。ですから、一般的な保護の議論ではない「火打山ライチョウ個体群」の保護が大切になるのです。「火打山ライチョウ」の保護はライチョウ一般の保護と異なるものをもっていて、火打山を自らの自然環境の一つとしている人たちこそが主体的に関わる必要があるのです。新潟県の県鳥トキと長野県の県鳥ライチョウは、国、それぞれの県の具体的な保護政策を考える上では格好の例になっていることは確かです。火打山ライチョウ妙高市民はどのような在宅での保護活動を展開するのか見守りたいものです。