生命地域主義(bioregionalism)は時には「バイオリージョナリズム」、「生態地域主義」と呼ばれる。妙高市は「生命地域の創造」を標語にしている。自分たちが居住し、生活する場が地域、その地域の自然と人間との昔からの相互関係を再度見直すことで、その土地の特性や自然の持続性を守る生活様式をつくろうというのが生命地域主義である。地域の生態系に適応する地域社会を目指す社会運動として、1970年代前半にアメリカのエコロジスト、P・バーグ(Peter Berg)が提唱した(Berg, Peter. Reinhabiting a Separate Country: A Bioregional Anthology of Northern California. San Francisco: Planet Drum Foundation, 1978.)。妙高市の標語「生命地域」がバーグのこの思想にどれだけ依拠しているか私は知らない。だから、生命地域主義という思想自体がどのようなものか振り返ってみたい。
「生命地域(bioregion)」とは自治体の行政上の区割りではなく、地理的、生態系的にみた地域の特徴から決まり、昔からその土地に固有の文化が育まれてきた地域のこと。「生命地域」という耳に馴染まない訳語は「生まれ、育ち、暮らす地元」、つまり「故郷」のことである。『遠野物語』の遠野や頸城野、さらには武蔵野など、多くの生命地域は古来河川とその支流が流れ込む流域を核にしてきた。生命地域主義では生態系と人々の意識によって地域を分けるから、一つの川とその支流で結びついたまとまりのある地域、つまり、「流域」を一つの地域として捉えることが多くなる。
生態地域主義の主張を堅苦しく述べれば、次のようになるだろう。
・地域の自然生態系の機能の回復と維持
・地域内での循環型システムの構築
・持続可能な地域生態系資源を活用し高付加価値化した地域と調和した産業や技術の創出
・地域情報の発信を通じて他地域や世界とのコミュニケーションを図る
その地域にある自然資源に着目し、そこに文化や技術、人材などの人的資源を組み合わせることによって地域内の循環型システムを作り、それを持続可能なものにしていく。また、そこでの経済は自然を搾取するのではなく、自然を維持するものにする。したがって、生命地域主義の経済は自然の資源の利用を必要最小限にし、汚染と廃棄物の排出を極力抑え、その地域でエネルギーを循環利用できるゼロ・エミッションのシステムを作り上げる。さらに、自分たちの住んでいる場所に根付き、土地とのかかわり合いを常に意識しながら住むという意味で「再定住(re-inhabitation)」の重要性が強調される。
生命地域主義は思想であるから、上述のように能書きを垂れるのが当たり前なのだが、その能書きの正体はつまるところ、「自然環境保全+地産地消、あるいは自給自足」の思想のことだと言い切れば、随分と単純でわかりやすくなる。
「地産地消」は地元で採れた産物を地元で消費することであり、「自給自足」は必要とするものを自分で生産してまかなうことだと定義したとする。字面から二つは違うように見えるのだが…そこで、まずはこの二つがどんな関係にあるのか明らかにするため、二つの四字熟語の次のような定義を仮定しよう。
地産地消:地元でとれたものを地元で使う。
自給自足:ないものを地元でつくる。
「地元」は生命地域を指すのかなど、使われている語彙の意味が曖昧であっても、ほぼ形式的に地産地消と自給自足の間の論理的関係ははっきりしている。定義から、地産地消は「Xが地元にあれば、そのXを使う」、自給自足は「Xが地元になければ、そのXをつくる」と表現できる。Xが地元にないとしよう。自給自足が仮定されれば、Xをつくることになる。すると、そのXは地元にあることになり、そのXを使うことになる。つまり、Xについて自給自足が成り立てば、地産地消ということになる。こうして、どのようなXについても、Xが自給自足されれば、Xは地産地消されることになる。したがって、自給自足は地産地消を含意する。残念ながら、この逆は成り立たない。つまり、地産地消でも自給自足できない場合があることになる。
だが、地産地消の実際の定義は「地元でつくり、地元で消費する(地域生産地域消費)」ことで、自給自足と何ら変わらない。ロビンソン・クルーソーのように一人、あるいは少数なら自給自足、地域ぐるみの集団ならば地産地消と呼ばれている。上述の定義のように二つの概念を別々に捉えた方が丁寧なのだが、現実にはそれが無視され、二つの関係はほぼ同義で、状況に応じて使い分けられている。
地産地消という言葉は意外に新しく、当時の農林水産省生活改善課が1981年から4ヶ年計画で実施した「地域内食生活向上対策事業」から生まれた(Bergの生命地域主義は既に知られていた)。1984年に雑誌『食の科学』で秋田県職員が「地産地消(地域生産地域消費)」を使用していて、ほぼ同時期の農水省の公報誌にも「地産地消」が掲載されている。当時、農村では伝統的な米とみそ汁と漬物の食事だったため、塩分の取り過ぎが多く見られ、当時の死亡原因第1位となった脳卒中を減らすために伝統食の欠点を改善する必要があった。国民の健康増進のために不足しがちな栄養素を含む農産物の計画的生産と自給拡大の事業が実施された。このような活動のために「地産地消」という語がつくられた。この地産地消は地域で生産し、その地域で消費をするといった意味で、GDPに反映され、地産地消は地域ぐるみの自給自足と言える。
食料の交換を主な目的にしたのがかつての「市(market, fair)」だった。特定の日に定期的に開かれる市は物々交換から始まった。物々交換は地産地消の典型例である。物々交換のもつ限界が結果として地産地消をもたらしたとも言える。
食料はできるだけ国内で生産し、工業製品はできるだけ輸出しようというのは実に虫のいい話で、輸出の相手国が同じように地産地消を目指したならば、日本は窮地に陥ること必定。だが、地産地消を目指したくてもできないのが現実である。それゆえ、国の間に格差が生じ、私たちは富を手に入れてきたのである。
人は一人では生きていけない。人は互いに助け合わなければならない。そのための家族であり、共同体である。一人では生命そのものが意味をもたない。生き物は複数で初めて成り立つもの。つまり、一人だけで自給自足の生活はできない。身体的な維持だけでなく、精神的な維持をも考えると、たった一人での自給自足生活は不可能。では、なぜ地産地消は可能なのか。共同体で分業しながら地産地消の生活をすることは十分に可能で、実例もたくさんある。一人ではできないが、複数なら可能ということである。集団と分業のカラクリがここにあり、経済の根本となっている(自給自足と地産地消が同じか、違うか考え出すと、経済の根本は少々怪しくなり出す)。だが、生産と消費のカラクリはもっと複雑で、その精妙な仕組みが富の格差を生み出し、資本主義の自由経済の下では格差が増大すると言われている。
さて、生命地域主義のもう一つの面である環境保全はどうだろうか。地産地消を推進するなら、生産品だけではなく、それを生産する際に出たごみも地域で消費しなければならない。生産に伴うごみは産業廃棄物、排煙、熱等で、それらもすべて生産地域で処理されなければならない。それがまるでできていないのが現在の世界。先進国はかつてごみを垂れ流したままだったし、急速に工業化を進めている中国、インド、ブラジル等も自ら積極的にごみを処理しようとはしていない(だが、近年随分変わり始めている)。地産地消の真の実現は、実はとても困難である。これは自給自足の場合も同様。自ら生きる糧を生むだけでなく、生む際に出るごみの始末も自らしなければならない。これでは自給自足も地産地消も実現がとても難しいことになる。そうすると、環境保全と地産地消は両立できず、それゆえ、生命地域主義はいずれ破綻するだろうということになる。
これが意味するのは、生命地域主義が成り立たないどころの話ではなく、生きることは自己完結できず、負の遺産を生み出し続けるということである。したがって、生きることは、いずれ破たんする。つまり、生きることは持続不可能。これは生命が地上に誕生し、進化してきたことが何であったのかを改めて問い直すことに繋がる。生命の誕生と進化はいずれ無に帰すことだとなれば、なぜ生命が生まれたのかという疑問さえ出てくる。こんな無謀で、仏教的な不安は一笑に付されるのが落ちだが、もしこんな謎が少しでも残るとすれば、議論自体がどこかで誤っていたのかも知れない。しかし、地球自体が持続可能でないことを認めるなら、当たり前の結論なのかも知れない。
これは思想がいかに不毛かを見事に示している。実際に妙高に住む人々は思想などではなく、これから数十年の生活の目途が立つ計画が信じられれば、それを信じるしかないのである。そして、これは万人について然りなのである。思想は平気で否定的主張ができるが、生活は否定しただけでは立ち行かない。