私が生きる世界(1)

 私はどんな世界に生き、暮らしているのか。人が生活する世界とは、そこで生まれ育ち、楽しみ、苦しみを経験し、家族や友だちをもつ環境であり、宗教、科学、哲学が探求してきた自然、社会、精神を含んだ世界である。その生活世界はどのようにつくられ、変えられ、如何なる特徴をもっているのか。長く生き続けてきた私が今更自分が生きてきた世界を振り返っても詮無きことかも知れないが…携帯が鳴り、友人からのメールを読み、パソコンの画面からホテルを予約し、翌日にはニューヨークで仕事をこなし、その後美術館で絵画を楽しむ、こんな生活世界とは一体何なのか、その正体を探ってみよう。

1因果的な生活世界[1]
 私たちはどんな世界で生きてきたのか。こんな問いは生きる糧にはならないが、生きる意義くらいなら示唆してくれそうである。神話や物語に強く惹きつけられ、それが一生を左右することはよく聞く話で、主人公の生き方に感動し、同じように生きたいと望むのは、決して稀有なことではない。世の中で生きることが因果的な出来事を因果的に経験することでないのであれば、誰も物語に感動などしない。これは生活世界そのものが因果的であることを示す状況証拠ともいえるものである。因果的な物語に心躍らせ、論証的な説明には退屈するだけという経験を誰もがしている。因果的でなければ物語にならないし、経験的な科学理論もこの世界で因果的に解釈できなければ、何を主張しているかさえ不明で、どう使ったらよいのかわからないことになる。
 私たちが住む世界は徹底して因果的にみえる。だが、私たちの関与や関わりが弱くなったり、なくなったりする場合には因果的でなくても構わないような状況が生まれてくる。関与が弱くなるミクロな世界や関与のない数学の世界では因果的でない世界が可能となってくる。[2]その意味で、因果的であることは極めて人間的である。どんな出来事も因果的に起こるゆえに歴史がつくられたと私たちは考え、歴史に重要な役割を与えてきたし、因果応報、栄枯盛衰を経験しながら、誕生から死までの自分の人生を因果的に捉えてきた。そのため、時には「因果的=歴史的=時間的」な現実から逃れ、現実から距離を置くために俯瞰的に世界を眺め直したくなり、それが普遍的、一般的な知識の探求を促したのだと言えなくもない。いずれにしろ、生活世界が因果的であることは紛れもない事実である。それゆえ、神話であれ、相対性理論であれ、それを使って生活世界の出来事について述べる場合は同じように因果的に述べることになる。というのも、物理世界に因果的でない変化があったとすれば、それは私たちには不可解であるからである。
 神話、物語にはシナリオがあり、そのプロットは起承転結、生死、始まりと終わり、といった事柄を含み、生活世界を因果的に表現している。プロットは二つ以上の因果系列がどこかで交差し、別の因果系列に切り替わることを示すもので、二つの因果系列の相互作用という複雑な状況を生み出し、それが物語を魅力的に仕立てている。
 生活世界が因果的であるのは私たちの適応の一つと考えてほぼ間違いない。これは極めて蓋然性の高い仮説である。物理理論が因果性を仮定していないことはむしろ普通のことであるが、そのことと生活世界が因果的ということは矛盾しない。

2因果的でない論証とその解釈
 ある事態から別の事態が起こるとき、その経緯を因果的変化と考える。同じようにある命題から別の命題が導出されるとき、その経緯は論理的変化と考える。事態を表現したのが命題であるから、二つのレベルの違いは因果的、論理的の違いということになる。因果的な変化を使うか、論理的な導出を使うか、あるいはその両方を使い分けるか、これら三通りの手法を私たちは巧みに使い分けている。因果的な生活世界を冷静に理解するために哲学や科学の知識に頼ることがよくある。その主な理由は、哲学や科学の理論が非因果的なシステムで、現実離れのできる俯瞰的なモデルをつくってくれるからである。それらは基本的な法則や原理を前提にして演繹的に結論を導き出す、という論証からなっているのが普通である。論証は因果的ではなく、論理的である。つまり、論証に登場する命題や言明が論理的な関係で並べられていて、その内容の時間的な関係で並べられてはいない、ということである。理論が生活世界の知覚経験から離れて予測や説明を一般的に展開しようとすれば、生活世界の因果的な変化ではなく、論証を使わざるを得なくなる。
 それが最もはっきり、具体的に現われるのは数学理論である。中学校でのユークリッド幾何学の定理の証明を想い出してみればよい。ユークリッド幾何学の定理、例えば、「三角形の内角の和は2直角である」は平行線の公準と同値かどうかという問題は、二つの命題の間の因果的な関係ではなく、「演繹的」な証明を工夫することによって、同値かどうかという、因果的ではなく、論理的な関係を問うている。論理規則に従う議論の展開は推論、論証、証明などと呼ばれ、腰を据えて、じっくりと議論を進めるという特徴をもち、「因果的な現実からの独立」と呼ぶのが相応しいだろう。論証の展開は因果的ではなく、論理的であり、それゆえ、時間的な変化から独立している。数学の定理はいつでもどこでも真であり、時間的に真偽が変化することはない。
 論理的、数学的な論証は因果的ではないが、日常生活で知識を使う場合、その使い方は因果的であり、世界の変化に上手く足並みを揃えて使わなければならない。因果的に論証結果を使うことと並んで忘れてならないのが、論証結果の世界での解釈、つまりそれがどのような意味や内容をもっているかについてである。世界内での解釈は因果的な変化に矛盾しない解釈でなければならない。論証の世界は因果的ではないが、その論証の結論の解釈、意味は因果的な世界の変化に矛盾せず、それに従うものでなければならない。論証自体は論理的な規則に従うが、論証の結論がもつ内容は因果的な世界で意味をもたなければ何の役にも立たない。
 私たちは論証のために現実離れをし、論証が終わったら、得られた結論を現実の世界に引き戻すのである。

[1] 生活世界といえばフッサールを思い出す人が多いが、常識世界(Folk World)、常識科学(Folk Science)、常識心理学(Folk Psychology)といった用語も浮かんでくるだろう。因果性は形而上学的概念であるが、それ以上に常識的な概念である。
[2] 地上の生活世界を火星のような遠くの星から眺めたら、因果性の希薄な俯瞰的な姿が眼に入ってくるだろう。視点がないような幾何学的世界では因果性はなく、すべてが等方的、一様的である。