行動主義と同一説

1論理的(分析的)行動主義
[心は世界のどこにもない]
 哲学的あるいは論理的な行動主義 (Philosophical behaviorism, or Logical behaviorism) は心理的な用語は意味を損ねることなく行動の用語に翻訳することができるという見解です。ライル(Gilbert Ryle, 1900-1976)はデカルト心身二元論を批判し、それを「機械の中の幽霊ドグマ(the ghost in the machine dogma)」と表現しました。「観察できる出来事が身体と不可分に結びついているように、内的な出来事は心と不可分に結びついている」という主張は誤っているというのが彼の考えです。というのも、ライルによれば、心的用語は人が行動する仕方に言及しているのであり、内的な心的状態に言及しているのではないからです。これは心理主義への強い反撥で、この反撥は、次の論証に明確に表われています。

心的状態が行動の内的な原因であるとすれば、それを見ることができないため、私たちは他人の心的状態についての知識をもてないだろう。
ところが、私たちは他人の心的状態についての知識をもつ。
それゆえ、心的状態は行動の内的原因ではない。
(最初の前提は何を述べているでしょうか。経験主義の主張は何だったのでしょうか。)

自然主義的誤謬]
 ライルの二番目の反対は自然主義的誤謬(naturalistic fallacy)あるいはカテゴリーミステイクと呼ばれるものです。「デカルトは心をもっている」、「デカルトは身体をもっている」はそれぞれまっとうな命題ですが、「デカルトは心と身体をもっている」という命題はライルによれば許されません。心と身体は別のカテゴリーに属しているからです。これはほとんど二元論の否定と言ってもよいでしょう。このライルの主張は正しいでしょうか。

(1)デカルトは心をもち、脳をもつが、それら二つは異なる。
(2)デカルトは心をもち、脳をもつが、それらは同一である。
(3)人が心をもつのは正しく、人が脳をもつのも正しいが、心が脳の上に存在するものであると考えるのは誤りである。

これら三つの命題はそれぞれ(1)が二元論、(2)が同一説、(3)が行動主義の主張を表しています。これらは言語の規則に反しているでしょうか。反してはいません。それどころか、三つの命題はいずれも有意味な主張です。また、ライルは傾向性(disposition)を使って心的状態や性質を分析しようとしますが、傾向性で状態を置き換えることはできません。痛みの行動がなくても痛みは存在可能です(デネットは次のような例を挙げています。手術中に体の自由を奪う麻酔と、その記憶を手術後喪失させる薬を併用した場合、それは通常の麻酔と同じ効果をもつでしょうか。通常の麻酔なら痛みはありませんが、この場合はどうでしょうか)。
 論理的な行動主義は哲学的な主張に基づく徹底した行動主義です。そこには哲学的な主張の素朴なまでの徹底さが見られます。

2方法的行動主義
[心は研究対象にならない]
 デカルト的な二元論によれば心は非物理的(延長をもっていないの)で、第三者には観察できません。それゆえ、心理学は経験科学としては成立不可能です。経験科学として成立するには、刺激、条件付け、反応といった観察可能なものにだけ言及する行動の理論として心理学を確立しなければなりません。このように主張する方法的行動主義(Methodological behaviorism)は、心理学がどのように研究されるべきかについての主張、つまり、科学方法論の主張です。まず、この点が論理的行動主義と異なります。論理的行動主義は、信念や欲求が行動を引き起こす心的状態であることを否定しますが、方法的行動主義は心理主義的な用語が内的状態を指示することを否定しません。でも、信念や欲求が外側からは観察できない内的状態ゆえに、それらについて心理学的に語ることは方法論上否定されます。
[スキナーの主張とチョムスキーの批判]
 方法的行動主義の否定的なテーゼは、心理学は信念、欲求を使った説明を避けるべきであるというものです。この主張はスキナー(Burrhus F. Skinner, 1904-1990)に代表されますが、心理主義的な説明に対する彼の反対理由の一つは、信念や欲求は観察できないというものです。それらは隠れています。二つ目の理由は説明が余りに容易過ぎるというもので、それらを仮定することで観察結果に合う信念や欲求の話を作り上げることができてしまうからです。つまり、信念や欲求をアブダクションで勝手に導入してはならないということです。
 しかし、スキナーの行動主義はチョムスキー(Noam A. Chomsky, 1928- )によって鋭く批判されます。スキナーの『言語行動』(Verbal Behavior)に対するチョムスキーの書評は次のような内容でした。私たちは有限の語彙と文法規則を使って、無限に多くの異なる文をつくり、理解することができます。行動主義は過去の反応と条件付けの歴史を強調しますが、どのようにこの無限の内容を取り扱うか知りません。また、最初に経験する新しい内容をどのように習慣的な刺激-反応の図式で理解できるというのでしょうか。無限のもの、新しいものを行動主義は扱うことができません。この批判は方法的行動主義を崩壊させるのに十分過ぎるものでした。

(問)論理的行動主義と方法的行動主義の違いを心の扱いを中心に説明しなさい。

3同一説
[徹底した唯物論
 心的な性質(状態、過程)は脳の性質(状態、過程)と同じものです。つまり、どんな心的性質も物理的性質そのものです。「気体の温度は気体分子の平均運動エネルギーである」のと同じ意味で、心的性質は脳の性質です。これが同一説の主張です。自然主義の典型である同一説には微妙に異なる主張が含まれています。代表的な説を以下に挙げてみましょう。

1スマート(John .J.C. Smart, 1920- )の主張:しばしば脳過程(に関する)唯物論と呼ばれ、感覚は脳過程と同一であると主張する。
2 アームストロング(David M. Armstrong, 1926- )の主張:中枢状態唯物論と呼ばれ、心的状態は中枢神経系の状態と同一であると主張する。
3 ファイグル(Herbert Feigl, 1902-1988)の主張:神経生理学的な用語と心的な用語は同じものを指示すると主張する。フレーゲの意味と指示の違いから、二つの用語の意味は異なるが、指示は同一であると考える。

[経験的な同一説]
 科学が経験的であるのと同じ意味で、同一説は経験的な主張です。二元論、生気論と対比するなら、同一説は一元論であり、非生気論です。したがって、すぐに同一説の説明構図の方が二元論より単純であることがわかります。その主張は単純明快で、心と脳は同一で、その同一性の細部は経験的に確証されます。その結果として、心は還元・消去され、脳の振舞いによって置き換えられることになります。脳に関する研究者が心について何か述べようとするとき、脳に関する研究は心に関する研究でもあると考えるのは、背後に同一説があると理解しやすくなります。しかし、認知科学の内容は必ずしも同一説の立場に立って理解する必要はありません。むしろ、その主張は同一説と異なるものです。そして、それは次の機能主義に基礎を置くものです。

(問)同一説が経験的であるとはどういう意味でしょうか。

[同一説:心が脳と同じかどうか?]
 心的性質(状態、過程)は脳の性質(状態、過程)と同じというのが同一説の主張でした。「痛み」と「C-線維の興奮」は同義語ではありませんが、にもかかわらず同じ性質を指示します。痛い状態にあるという性質とC-線維が興奮している状態にあるという性質は同一です。
 ライプニッツの法則は、二つのものが同一なら、それらがもつ性質もすべて同じである、つまり、(x)(y) *1(この論理式は高階である)であることを主張していましたが、この法則から、心的出来事と脳の活動は異なる性質をもつため、それらは同一でないという同一説批判が出てきます。別の同一説批判によると、心的記述と物理的記述は空間的な局所性、客観的観察可能性、志向性という三つの点で異なっています。空間的な局所性による批判を見てみましょう。

(空間的な局所性を使った推論)
1脳過程は空間的出来事である。
2感覚は空間的ではない
3同一性の法則は一方について正しいものは他方についても正しいと主張する。
4それゆえ、二つのものは同一ではない。

客観的観察可能性に関しても類似の批判的な推論を展開できます。脳過程は観察可能ですが、経験する感覚はそうではありません。また、志向性は心的状態に適用されますが、脳の活動には適用されません。

*1:x = y) → (F) (Fx ⇔ Fy