[アリストテレスからフレーゲへ]
アリストテレスの命題の基本型は自然言語の文の形に基づいていた。彼は二つの名辞が文を構成すると考えたが、文は主語と述語からなると考えたのがフレーゲである。文法上、一つの文に主語は一つしかない。その一つの主語に述語がついている。主語をx、述語をFとし、「xはFである」をF(x) と表してみよう。すると、アリストテレスの4つの基本型は、
すべてのxについて、F(x)
すべてのxについて、¬F(x) (¬は否定記号)
あるxについて、F(x)
あるxについて、¬F(x)
となる。ここで、「3は4より小さい」という命題について同じことを考えてみよう。3や4を変数x、yを使って書き直すと、「xはyより小さい」となり、さらに、大小関係の記号 < を使うと、x < yという式になる。これをF(x) と同じ書き方にすると、< (x, y) という表現ができる。この表現をF(x) と比較するなら、< (x, y) は二つの主語をもっていると言える。一つの文が二つの主語をもつことは文法的には許されない。しかし、文法の形式は文の形式であり、文の内容の形式ではない。「3は4より小さい」の内容を考えてみると、「3は自然数である」という文の内容が3の性質を述べているのに対して、3と4の関係を述べている。いずれの文も文法上の主語は同じであるが、性質と関係という異なる内容をもっている。では、この異なる内容が正しく反映されるようにするにはどうすればよいのか。文法上の主語ではなく、論理上の主語をもとに内容を表現すればよいだろう。3も4も論理上は同等であるから、いずれも論理上の主語として認めるなら、< (x, y) は二つの論理上の主語をもつ表現と考えることができる。すると、この考え方をさらに進め、「5は3と4の間にある」という文はG(x, y, z) と三つの論理上の主語をもつ形で表現できることになる。さらに一般化すれば、H(x1, x2,…, xn) といった表現が得られる。ここには論理的な主語がn個登場している。
では、このような論理的な主語を使って、どのように通常の文を書き直したらよいのか。まず、簡単な4つの基本型について考えてみよう。すると、肯定形については次のような書き換えができるだろう。
すべてのMはSである すべてのxについて、そのxがMなら、そのxはSである
あるMはSである あるxが存在し、そのxはMであり、かつそのxはSである
否定形は上のそれぞれの書き換えを否定するだけである。「すべて」や「ある」は主語がどのくらいあるかを表わしている。この二種類の量的な修飾をそれぞれ∀、∃という記号で表し、接続詞も結合子で表現すると、肯定形は、
∀x(M(x) → S(x))、∃x(M(x) ∧ S(x))
と記号化できる。否定形の場合も同様に記号化すると、
∀x(M(x) → ¬S(x))、∃x(M(x) ∧ ¬S(x))
となる。では、複数の論理的な主語をもつ文はどのようになるか。文「人間の細胞は動物の細胞である」を例に考えてみよう。論理上の主語が一つの場合は一回の書き換え、二つの場合は二回の書き換えが必要となる。これはまず「すべてのxについて、そのxが人間の細胞であれば、そのxは動物の細胞である」と書き換えられる。さらに、「そのxが人間の細胞である」は「そのxは、ある人間yがいて、そのyの細胞xである」に、「そのxは動物の細胞である」は「そのxは、ある動物yがいて、そのyの細胞xである」に書き換えられる。ここで、F(x):xは人間である、G(x):xは動物である、H(x, y):xはyの細胞である、とすると、
∀x(∃y(F(y) ∧ H(y, x)) →∃y(G(y) ∧ H(y, x)))
と書き換えられる。書き換えられた記号の式は論理式と呼ばれるが、自然言語の平叙文(「…は―である」の形の文)はこのようにして論理式に記号化できることになる。
すると、推論はそこに登場する文を記号化し、論理式をつくり、それについての計算を演繹システムで実行し、結論をもとの文に翻訳すればよいという手順が自然に出てくる。つまり、ライプニッツやブールの考えが論理式についての計算のシステムという形で実行できることになる。そして、これを成し遂げたのがフレーゲである。
(問) 次の文を論理式に記号化してみよう。
直線lに平行な線がある。
直線lに平行な線が少なくとも一本ある。
直線lに平行な線は高々一本である。
フレーゲはドイツの数学者、論理学者、そして哲学者である。彼は述語論理の計算システムをつくり、証明の概念を形式化した。また、言語を包括的に研究し、現在も多くの哲学者がその研究を続行している。彼は数学を論理に還元することに生涯取り組んだが、それには成功しなかった。
(論理学)
ライプニッツの思考の言語と理性的な計算という考えを具体化するためにフレーゲは命題を形式的に表現し、それを証明する述語論理のシステムを生み出した。それは第一階の述語計算と呼ばれることになるが、数学的な推論を遂行するのに十分なものだった。これはアリストテレスの文を主語-述語で分析することの限界を打ち破ったもので、「証明」は公理または定理から推論規則によって導出された論理式の系列として厳密に形式化された。
フレーゲは述語計算のシステムをもとに数学の基礎づけを試みた。彼は論理主義と呼ばれる、論理的な概念だけで数学的概念を定義し、論理法則だけから数学的公理を導き出すという考えのもとに、それをGrundgesetze der Arithmetikで実行した。その中で使われた抽象の公理は後にラッセルのパラドクスをもたらす。論理主義は成功しなかったが、そこでの成果はラッセルとホワイトヘッドのPrincipia Mathematicaにつながって行く。
フレーゲは数学や論理の研究と並んで、言語についての考察も行った。彼の論文 ‘Über Sinn und Bedeutung’ は今ではこの分野の古典である。彼は言語についての二つの謎を考える。一つは同一性言明で、他は命題的態度のような文である。両方に共通するのは、語は意味と指示の両方をもち、両方が文の有意味性や論理的な振舞いに不可欠な点である。この考えはその後現在に至るまで大きな影響を与えることになる。そこで、この点を詳しく見てみよう。
(同一性言明)
次の同一性言明を例に考えてみよう。
117 + 136 = 253.
明けの明星は宵の明星と同一である。
ビートたけしは北野武である。
フレーゲによれば、これらはみなa = bの形をしている。彼はa = bの形の文が真になるのは、aが指示する対象とbが指示する対象が同じ場合であると想定した。明けの明星と宵の明星は同じ金星を指示しているから、上の例文は真になると考えた。しかし、この説明では「a = b」 と「a = a」 の真理条件は区別がつかない。例えば、「ビートたけし=北野武」と「ビートたけし=ビートたけし」の区別がつかなくなる。なぜこの区別が必要なのか。一方はトートロジーなのに、他方は情報をもっており、二つの文の認識的な意味が異なっているからである。
(命題的態度)
人と命題の間の心理的関係は信念、欲求、意図、知識等がある。これらは次のような文で表現されている。
Aはpを信じる。
Aはpを欲する。
Aはpを意図する。
Aはpを知る。
Aに「太郎」、pに「ビートたけしはコメディアンである」を代入すると、最初の文について、
太郎はビートたけしがコメディアンであると信じる
という文ができる。ここで同一性言明「ビートたけし=北野武」を使って、代入によって、
太郎は北野武がコメディアンであると信じる
という文をつくってみよう。「ビートたけし=北野武」から代入によってつくられた文の真理値は代入前の文の真理値と同じ筈である。この推論は太郎が北野武を知らなければ、正しくないが、次のような正しい推論に似ている。
4は3より大きい。
4は8の半分である。
よって、8の半分は3より大きい。
この推論で使われる代入の原理は命題的態度が入った文では成立しない。太郎がビートたけしの本名を知らなければ、代入してつくられた文は彼には正しくないかもしれないからである。
[意味と指示]
これらの謎を説明するためにフレーゲが考えたのは意味と指示の区別である。「明けの明星」と「宵の明星」は金星を指示するが、金星を違った仕方で指示する。この違った指示の仕方が意味の違いである。「神武天皇」と「日本の初代天皇」は意味をもっているが、指示があるかどうかは疑わしい。言明全体の意味はその構成要素の意味の関数である。aの意味とbの意味が異なるので、「a = a」と「a = b」の構成要素は異なり、したがって、「a = a」と「a = b」の意味は異なるのである。意味が異なることから認識的にも異なることになり、「=」に関する謎は説明できることになる。
さらに、命題的態度を表す動詞の後に登場するpは、pだけの場合に指示するものを指示しなくなる、とフレーゲは主張した。つまり、それら動詞の後では指示対象が異なるのである。これによって、代入の原理が成立しなくなる。したがって、太郎の推論は正しくないのである。