動物の姿は何ともつまらない。動物の代表となれば、言わずと知れた人間様だが、これがまた何とも退屈この上ない。身体は左右対称で、二本の手足、二つの眼と耳と、ほぼ全員が同じ数の器官をもっている。他の動物も似たり寄ったりで、器官や組織の数も形も、そして場所さえもほぼ同じである。にもかかわらず、私たち人間については、その優劣、美醜の差をつけ、総じて個性を際立たせたがる性癖をもっているようである。
だが、目を転じて、植物となるとどうだろうか。一本として同じ樹形をしたサクラもクスノキもない。確かに、どのアキニレもよく似ているのだが、同じ生物種の動物のようには似ておらず、その姿は自由の風情に溢れている。ケヤキは互いによく似ているが、動物が似ているという意味では似ていない。五体満足は樹木には通用しないように見える。確かにそんな風に見えるのだが、動植物の外観をも支配するDNAの配列となると、動物も植物も大差なく、同一の生物種の配列はよく似ていることになっている。
とても不思議なことだが、イヌやネコが同種だと判断するのと同じようにケヤキやナラが同じだと判断していると私たちは信じて疑わないのではないか。すると、同じだと判断することを許す寛容さはサイズに関してのもののようである。大きさが大きく違っても同種のものという訳である。
大きさといえば成長に関わっていて、それは年齢に繋がっている。大きさへの寛容は年齢への寛容に繋がっている。ケヤキ、クスノキ、ナラのどれもその樹形に大まかなパターンはあっても、実に変幻自在で、偶然の所産としか説明のつかない形をもっている。樹形が波乱万丈なのに比べれば、人の姿かたちの違いなど取るに足らない。ムクゲの花はどれも大同小異で、ほぼ同じなのだが、ムクゲの木となると千差万別で、花とは違って大いに個性を発揮しているように私たちには見える。同じのは花だけではなく、葉も幹もよく似ている。それぞれの器官は似ていても樹形は大いに異なっていて、その違いは動物の場合を遥かに凌駕している。
大きな樹への畏敬、小さな草花への慈愛は私たちの自然な反応、つまり自然への感情なのかも知れない。暫くはその辺の事柄を漁って見たい。