変化の表現形式(3)

2科学と演繹的推論
[推論とその表現]
 推論には演繹的推論(deduction)、帰納的推論(induction)、そしてアブダクション (abduction) がある。「カラスはみな黒い」からあるカラスが黒いことを導き出す演繹的推論に対し、多くのカラスが黒いことから,「カラスはみな黒い」を導き出すのが帰納的推論である。しかし、有限のカラスに関する情報から、カラス全体について結論することには飛躍がある。このような飛躍のない演繹的推論では推論の規則だけを使って確実に推論できる。だが、帰納の飛躍を埋める規則は知られていないため、現在は確率や統計を使って帰納的推論を考えている。アブダクションは観察事実を説明するための仮説を見出すことにあり、そのため、発見の論理、最善の説明をするための仮説設定とも呼ばれてきた。だが、ある結果を説明する適切な仮説を思いつくことは帰納的な一般化以上に飛躍がある。
 アリストテレスは演繹論理を三段論法を中心に最初に組織化し、19世紀までそれは多くの人に受け入れられてきた。しかし、単純な推論にしか適用できないことから三段論法は役に立たない自明なものとも考えられてきた。三段論法では二つの名詞A、Bだけを含む文「すべてのAはBである」と「あるAはBである」、そしてそれらの否定形だけが前提と結論に許される。例えば、「すべてのAはBでない」と「あるAはCである」という二つの前提から、「あるCはBでない」が正しい結論として導き出される。だが、関係を表す二つの前提「すべてのAはBより大きい」、「すべてのBはCより大きい」から、「すべてのAはCより大きい」という結論を導き出すことは正しいにもかかわらず、三段論法では証明すらできない。
 このような閉塞的な事態はフレーゲ (Gottlob Frege, 1848-1925) によって一新され、演繹論理の再定式化と適用範囲の拡張が同時になされ、現在の論理学が成立する。この革新の核心は論理的な規則の集まりを抽象的システムとして記号言語を使って定式化した点にある。私たちの日常言語はその豊かな表現能力のためにしばしば論理的な明晰さを犠牲にするし、文は何より文法規則に従わなければならない。この二点を克服するには日常言語から一旦離れ、論理規則が直截に反映される記号言語を使うことである。この人工言語は数学での記法を生かし,それをより組織化したものである。再構築された論理のシステムは数学や哲学の研究装置として使われ、また言語学コンピュータサイエンスに応用され、20世紀の科学の一特徴である記号を駆使した対象の把握を可能にした。
 記号言語を使うと明晰になる例を挙げよう。「どんな人にも信じるものがある」と「どんな人にも信じられるものがある」の違いは何かと聞かれたらどう答えるだろうか。違いはわかっていても、その理由をうまく言えない人が多いだろう。そこで、二つの文をそれぞれくどい仕方で言い直してみると、

「すべての人xについて、その人xには信じるものyが少なくとも一つはある」
「あるものyが少なくとも一つあり、そのものyはすべての人xに信じられる」

となる。これだけで相当はっきり二つの文の違いが出てくるが、さらに、記号化してみると、

∀x(F(x)→∃y(F(y)∧G(x, y))
∃y(F(y)∧∀x(F(x)→G(x, y))

となり、これらを簡略化すると、∀x∃yG(x, y)、∃y∀xG(x, y)となる。∀x∃yと∃y∀xの記号の「並び方の違い」が二つの文のもつ意味の違いを示している。
 私たちの周りには一見正しそうな推論が溢れている。実際に目にする誤謬の大半は純粋に論理的な誤謬というより、知識や認識と論理がもつれ合った誤謬が多く、それらに気をとられ誤謬が生まれやすい。次の二つの推論を考えてみよう。

デカルトは心をもっている。
デカルトのロボットは心をもっていない。
それゆえ、デカルトデカルトのロボットは同じではない。

デカルトは自分が心をもつことを疑うことができない。
デカルトは自分が脳をもつことを疑うことができる。
それゆえ、心と脳は同じではない。

最初の推論は文句なく正しいが、二番目の推論は正しいだろうか。それが正しくないことは次の類似の推論が参考になる。

デカルトは2 + 2 = 4を疑うことができない。
デカルトは6-2 = 4を疑うことができる。
それゆえ、2 + 2は6-2と同じではない。

2+2は6-2と同じであるから、この推論の結論は誤っている。最初の二つの推論の違いは前者が事実に関する文からなっているのに対し、後者が事実について疑うという心的な態度を表す文からなっている点にある。
[科学的推論の正しさ]
 推論の論理的な妥当性と推論の経験的な健全さという区別を考えてみよう。二つの間にはどのような違いがあるのか。

海水は甘い。
海水が甘ければ、日本はアメリカにある。
それゆえ、日本はアメリカにある。

人間は動物である。
動物は進化する。
それゆえ、人間は進化する。

上の二つの推論が正しいかどうか問われたとき、どのように答えるだろうか。最初の推論は論理的に妥当である。つまり、演繹的推論としては正しい。(各自確かめてみよ。) だが、その結論は経験的には誤っている。日本は確かにアメリカにはない。誤った結論が出たのは誤ったことを前提にしたからである。「海水が甘い」という前提は経験的に誤っている。これに対して、二番目の推論は演繹的に正しいだけでなく、その前提も経験的に正しいと認める人が多いだろう。経験的に正しい前提が妥当な推論に使われれば、前提の正しさはそのまま保存されて、結論も前提と同程度の正しさが保証される。だが、前提が論理的に正しいわけではない。歴史的に見れば、「人間は動物である」がいつも文字通りの意味で正しいと認められていたわけではないし、「動物は進化する」が正しい経験的言明だと認められたのはダーウィンの進化論が認められてからのことである。これらのことから、妥当性は前提や結論の経験的な真偽と関係がないことがわかる。妥当性は推論の形式や構造のなかで前提と結論がどのように関係しているかのみに依存している。
 推論の(経験的な)正しさが前提の正しさに依存し、その前提の正しさは理論と確証されたデータによって供給されることを考えるなら、科学理論の真偽はそこでなされる推論の結論の経験的な正しさの確証と、そこから遡及される前提の正しさが鍵になっていることがわかる。科学理論の正しさが数学理論の正しさと異なるのはこの点にある。数学理論の正しさがもっぱら妥当な推論にあるのに対し、科学理論の正しさは妥当で、かつ経験的に真なる推論にある。数学理論の原理や公理が正しいことを経験的に確かめることが意味のないことだと考えられているのに対し、科学理論はその正しさを経験的な験証に頼っている。
 演繹論理は妥当な推論の研究であり、アリストテレスの論理学は演繹論理の一部に関するものだった。演繹的な推論の典型例はユークリッド幾何学である。公理と呼ばれる僅かな数の前提から定理と呼ばれる多くの結論を演繹することが可能である。演繹論理の特徴は真理の保存性にある。真なる前提をもつ妥当な推論からは真なる結論しか演繹されない。これは妥当な推論の結論は前提に含まれるもの以上のことを主張できないゆえに、演繹的な推論によっては私たちの知識を増やすことができないことも意味している。ピタゴラスの定理を知って驚いた経験があるかもしれないが、それは推論が複雑で一見したのでは前提に既にその内容が含まれていたことがわからなかったに過ぎない。気づいてみれば、確かに前提の内容を変形することでピタゴラスの定理は証明できることが納得できる。
 アリストテレスの知識についての考えは知ることができるものの範囲が必然的なものに限定されている。自然世界についての知識、例えば、炎は上昇するという事実についての知識は最初の原理からの因果的な必然性として演繹的に証明されるものと考えられている。この場合の原理は、すべてのものはその自然の場所をもち、それを求めるというもので、火の元素の自然の場所は地上では一番高い場所である。それゆえ、炎は上昇する。この見解では幾何学、一般的には数学が自然世界についての知識のモデルを与えている。前提は対象がもつ本質に関わっていなければならない。事物の本質についての知識が推論で前提されている。では、この本質の知識はどこからくるのか。アリストテレスの解答は私たち人間のもつ知的な直観であり、事物の原因、特に目的因を知覚する能力である。
 現在から見て、これに対する批判は知識を獲得する場合の知覚経験の役割がどこにもない点である。今の私たちが金属を熱すれば膨張することを知ろうとすれば、第一原理からどのように演繹するか考える代わりに、金属がさまざまな環境でどのように変化するか実際に観察するだろう。科学は実験や観察に直接に結びついており、経験論の立場に立っている。経験論者は世界についての知識は感覚器官の使用を通じてのみ得られると信じており、それらが思考だけ、理性だけからは得られないと思っている。つまり、世界についての正当化された信念を得るためには観察・実験やデータ収集が不可欠である。アリストテレスの論理は演繹的であり、確かに彼は経験データに大きな関心を示し、生物に関しては膨大な知識をもっていたが、実験を組織的に行なうことはなかった。ベーコンは演繹的な論理の代わりに帰納論理をもとにして、実験や観察により大きな役割を与えた。

(問)ある科学的原理から妥当に推論された言明の正しさが経験的に験証された場合、それを演繹した原理自体も正しいと言えるだろうか。