「絶食の効果」再録

 後期高齢者になると、身体能力は落ち、感覚が衰えるのを実感するのだが、人は高齢にならなくても自らの身体能力の変化を実感できる。それが病気や怪我の場合である。そこで、身体能力の変化について6年前の2017年の大みそかに書いた「絶食の効果:晦日の屁理屈」を再録したい(一部改変)。

 

 既に10年以上経つが、十二指腸穿孔で救急車搬送されたことがあった。十二指腸の壁に穴があいたのである。何か途轍もないことが自分の身体に起きたとその時直感したが、それと同時に何とも言えない嫌な気分に襲われた。むろん、みぞおちとその周りの痛みは激しく、七転八倒の苦しみに近かった。集中治療室で目が覚めた時の爽快感は格別で、吐き気を伴う嫌な気分と痛みはすっかり消えていた。

 だが、それは麻酔による幻想で、その後はこれまた地獄のような日々だった。腹部から廃液を出すために4か所チューブが差し込まれ、背中には痛み止めの薬のペレットがつけられ、点滴がセットされ、すっかり自由を奪われていた。5日ほどは痛み止めが不可欠で、夢うつつの状態が続き、生きるとは苦しむことだということを実感しながら時間が過ぎるのを待つしかなかった。栄養は点滴からしかなく、体重はあっという間に減っていった。それでも60㎏を優に越していた体重は50kgに近づき、自分でも身体が軽くなり、身体に触ると骨が妙に身近に感じられるようになった。痩せると自分の身体感がすっかり変わるのである。身に着ける服が変わると人格が変わる以上に、身体が変わると自我まで変わるのは心身の間に相互作用があるという常識を信じるならあり得ることである。

 3週間後、少しは余裕が出てきて、食事ということになった。私にとっては青天霹靂の経験だった。重湯とアイスクリームが最初の食事だった。既に食べることを忘れていたくらいであり、食欲がどんなものかも忘れる寸前だった。点滴による栄養補給は文字通り味気ない。実際、味がないのだから、「点滴の味」は「丸い四角」に似ている。

 さて、食事を摂り出してわかったのだが、私の舌が味を忘れておらず、甘い、塩辛い、苦い等はわかるのだが、それを感じる強さ、弱さがまるで違っていたのである。ほとんど甘くないアイスクリームが私には耐えられないほどの甘さだった。私の舌は味を忘れることはなかったが、その強弱をすっかり忘れていたのである。これは実に新鮮な経験で、それまでの苦しい痛みの経験を補って余りある貴重な味覚体験となった。

 「走ることはできるのだが、速く走れない」経験を目の当たりにする現在、どれほど遅くても走りたいと願いつつ、歩くのと同じ程度か、それより遅い走りとなると、それはもう走りではなく歩きではないか、と思うと、ほんの僅かな甘さでも私には強烈な甘さであるなら、私にとって僅かな甘さは健常人には甘くないのだと思わざるを得ない。だから、やはり私の舌は普通の甘味を忘れていたのだ。ヘーゲル風に量の変化は質の違いをもたらすのだと屁理屈をこねながら、ベッドの上で甘さを味わっていたのが思い出される。

 だが、その新鮮で鮮明な味の経験は長くは続かず、3日も経つとそれまでの味と変わらない平凡な経験に堕していった。残念ながら、味の新経験は終わり、味の正常な日常経験が再び始まったのである。味の経験とは結局そのようなもので、中断があったり、故障があったりすると、経験できなくなり、再出発の時には新鮮で生き生きした経験を味わえるのであるが、またそれまでの日常経験に戻っていくのである。

 

減らず口 今日が仕舞いと 大晦日

愚痴ばかり 積み重なりて 大晦日

晦日 今日が仕舞いの 減らず口 

晦日 積み重なるは 愚痴の山

 

 上の句の違いを感じる感覚も病気や怪我による感覚の変化と同じように年齢や経験に応じて変わるのだろう。そんなことを思いながら、来年も読者諸氏の健康と安寧を願い、年寄りの繰り言にも少しは付き合ってほしいと願いつつ、今年の打ち止め。