素晴らしい風景に感動し、映画のラストシーンに涙し、親子の絆を確信し、怪我や病気の痛みに苦しむのは、私たちが思考や信念をもち、喜怒哀楽の感情を意識できるからです。「心とは意識である」と看做し、物体である身体とは全く別物の存在だと考えたのがデカルト。デカルトの心についての理論は心と身体についての「心身相互作用論」と呼ばれますが、科学的に証明された訳ではありません。にもかかわらず、彼のこの個人的意見がその後の人心を支配し続けてきました。今でも多くの人が精神である心と身体である脳が相互作用していると考えています。
性欲は生得的で、性癖は獲得的だとよく言われますが、食欲と食事の好みも同様です。デカルトの「心=意識」という考えを学び、それを使って「心とは何か」に答えようとすれば、この違いを利用することができます。さらに、現代風の謂い回しを使うならば、脳は生得的、心は獲得的であり、それゆえ、心は身体ではない、となるのでしょう。
心の状態(mental state)として悲しみ、楽しみ、憂鬱といった状態を普通に思い浮かべる人は、対応する脳の物理状態(physical state)として何を思い浮かべるのでしょうか。物理状態を基礎に、それとのアナロジーで心理状態を考えると、劇場の舞台の情景を観ているかのような心的表象(mental representation)を心的状態と捉えているのではないでしょうか。たとえ心的表象は心の劇場の舞台で演じられるシーンのようなものだとしても、表象内容はあくまで外部世界で起こっている出来事です。
経験内容の表象は容易に可能ですが、経験それ自体は表象できるでしょうか。表象できないものを探し始めると、次々に見つかり始めます。それを逐一書き出してくれたのがヒュームです。彼は反デカルト的な哲学を追求し、心に関してもデカルトとは随分異なった意見をもっていました。
デカルトとヒュームはともに近代的な懐疑精神をもって哲学を探求したのですが、二人の「懐疑」は随分異なるものでした。まずは、その違いを下の表から掴んでおきましょう。1から2が導き出されるかどうかがデカルトの問題、2から3が導き出されるかどうかがヒュームの問題でした。デカルトはその問題にYesと答え、ヒュームはNoと答えました。
ヒュームの問題 |
3 予測と一般化 |
太陽は明日も昇るだろう。 太陽はいつも昇る。 |
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2 現在と過去の観察 |
太陽が今昇っている。 私が観察した日にはいつも太陽は昇っていた。 |
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デカルトの問題 |
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1 疑い得ない信念 |
今私は日の出を見ているようである。 私は今、私が観察した日にはいつも太陽が昇っていたことを思い出しているようである。 |
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つまり、「昇っている太陽を私が見ていると思ったら、実際に太陽は昇っている」ことが正しいと考えたのがデカルトです。一方、「太陽が今昇っているなら、明日も太陽は昇る」ことは正しいとは言えないと考えたのがヒュームでした。
(問)上の三種類の命題について、君ならどれがもっとも疑わしい命題だと思いますか。そして、それは何故ですか。デカルトの問題とヒュームの問題はどのように異なり、それが二人の懐疑をどのように変えてしまったのか説明しなさい。