水を感じ知ること

 彼が水を意識したのは暑い夏の午後だった。とても暑い日で、遊び疲れて外から戻った彼の眼にまず入ったのは土間の大樽で、中に水が一尺ほど張ってあった。この樽は米を研いだり、豆を洗ったりするのに使われていた。

 四歳の子供には大きな樽で、中に入れば泳ぐことさえできた。祖母に入ってもいいかと尋ねると、意外にも「いいよ」という返事。早速パンツ姿になって、樽に足をかけてよじ登るようにして入る。水は子供には腰に達する程の深さがある。

 水の中で身を屈めるとその冷たさが身体に沁み込んでくるかのようである。それが水を肌で感じ知った最初の体験だった。水は痛いほどに冷たく、しかも澄んでいて、風呂桶のお湯とは全く違った感触だった。彼は「水に直に触れた」と感じ知ったのである。

 蛇口があって、それを捻れば水は出るのだが、水道ではなく井戸からの水。彼の家は井戸水をモーターでくみ上げて、使っていた。当時は水道はなく、どの家にも井戸があった。身体に纏わりつくような冷水は滑らかさと厳しさを併せ持っていて、それが水の本性なるものを感じ知った最初の経験だった。飲むことには慣れていたが、樽の中で水を身体で味わうのは初めて。夏の暑さはあっという間に解消され、身体は寒さをおぼえ出す。冷たい感覚と水が結びつき、彼は水の本性を感じ知った気分になったのである。

 彼には自分の家の井戸の水が水であり、それは川や池の水とははっきり違っていた。それは飲む水、料理や洗濯に使う水であり、生活を支える水だった。水に味があることが当たり前で、自分の家の水は隣の井戸の水の味とは確かに違っていた。

 彼にとっての水とは自分の家の井戸水なのだが、雨水も川の水も井戸水とは違った存在だった。こちらの水は清濁併せもつ存在だった。雨に濡れるのは嫌いだったし、川の水はそれぞれの川に違った水が流れていた。

 

 彼が感じ知った水、体験した水は生き生きとしていたかもしれないが、それだけのことで、直にそれは退屈なものに変わる。水の体験的な知識などたかが知れていて、退屈するしかないようなものである。

 失われた経験を求めても、そこで感じとった知識などたかが知れたものである。経験など底が浅く、それが直感的な経験というもので、経験程底が浅いものはないのである。そんな経験談の最初が「水」。「感じ知る」ことの例としての物語からどんなことがわかるのだろうか。

 名前は最少の役割しか持たない。指示と意味の区別はほとんどなく、指示するだけで、どのように指示するかといった意味はない。ヘビは端的にヘビでしかない。だから、一般名詞と固有名詞の違いも未分化の状態である。物と言葉の関係はスタートしたばかりで、物と物の表現だけしかない。ネコそのものとネコの名前のような野暮な区別はしないのが子供のスマートな心得である。だが、その心得には正確さ、厳密さはない。

 「感じ知る」ことの意識的な見直し、正確な情報処理が「知る」と「感じる」を区別することになっていく。「感じた」内容の情報処理の結果が「知る」ことであるという段階的な区別を導入することによって、「感じ知る」ことを分解し、世界をきちんと知ることが始まる。