『鬼龍院花子の生涯』の「鬼龍」は姓やシンボルとして今でも意外にポピュラーである。鬼伝説は能の「紅葉狩」から生まれたという乱暴な推測を既に述べたが、鬼より古い化け物が龍である。慈円の『愚管抄』を具体化した世阿弥の「夢幻能」には冥(みょう)の代表として鬼が多く登場するが、龍の登場は少なく、「春日龍神」が数少ない代表(鎌倉時代の高僧明恵上人が天竺の仏跡参拝を決意し、暇乞いのため春日社に参詣する。春日明神の使いの宮守は春日山が霊山浄土だと引き留め、渡天を思い止まった明恵上人に龍神が釈迦一代を再現してみせるという曲)。
出雲の国でスサノオノミコトに退治されたのがヤマタノオロチ。ヤマタノオロチの正体は川の氾濫、盗賊の襲来、出雲の国そのものと諸説あるが、実在したものの喩えと考えるならば、斐伊川、出雲の国ではないかと考えられている。九頭龍伝説は日本各地に残る九頭龍(大神)に関する伝説。その一つが戸隠神社で、神社の奥に九頭竜神社がある。九つの頭をもち、龍の尾を持つ鬼がいて、村を襲っていた。村人に頼まれた修行僧はこの鬼を見事に成敗。鬼は岩戸の中に閉じ込められて、やがて改心し、神となる。龍は鬼の一種で、それが神になるという伝説も意外に新しいことがわかる。
仏教の八大龍王は仏法の守護神として登場する。八大龍王は仏教世界では釈迦の眷属(けんぞく、仏,菩薩につき従う者)として描かれている。八大竜王は観音菩薩の守護神となり人々にご利益をもたらす。八大龍王の物語は意外に古く、九頭龍とは関係ない。
今の私たちには龍より鬼の方が親しみ深いが、その古い理由は能にあることがわかる。世阿弥は夢幻能を確立する際に冥界の対象として龍より鬼を好んだのである。それは彼の芸術的な理由からである。蛇に拘る龍に対して、変幻自在に扱える鬼の方が舞台構成に優れていたからという、とても近代的な理由が考えられるのである。