科学や数学の理論を表現する言葉と宗教や倫理の信念を表現する言葉は違うのが普通ですが、どのように違うのでしょうか。科学や数学の言葉の代表例として古典力学とユークリッド幾何学の言葉を挙げることができます。ユークリッド幾何学の公理系、古典力学の三法則の表現を頭に思い描けばいいでしょう。これらの表現が時代と共に、時代に即して変化してきたなどとは誰も思わない筈です。何千年たっても平行線の公理は同じことを主張しています。それらは時代や状況とは独立した不変の内容をもつものだと考えられているからです。一方、宗教や倫理の代表例としてキリスト教の聖書、仏教の経典、儒教の古典などを挙げることができます。聖書や経典は様々に異なる言語に翻訳され、時代が変わるにつれて、その翻訳が変わり、解釈も様々に変わってきました。聖書や経典は不変の内容をもつと自明の如くに言われているのですが、実は時代や状況に応じて変わる部分を多く持っているのです。
このような違いが生まれた要因の一つが、使われる言葉の違いです。数学や物理学の言葉はつまるところ「形式言語」であり、数式に代表されるように一義的な意味を持っているのが普通です。いつでもどこでも誰によっても、同じように解釈され、曖昧さはまずありません。これは20世紀に明白になったことです。ところが、宗教や倫理の言葉は「自然言語」であり、その自然言語自体が時代や場所によって変化してきました。それゆえ、それら変化する言葉で述べられ、語られた内容はやはり時代や場所に応じて変わってきたのです。その言葉の変化が宗教や倫理の内容上の変化に大きな影響を及ぼしてきたのです。
様々に解釈される宗教や倫理の内容は長い歴史の中で大きく変化してきました。不変の筈の宗教教義が実は大きく変化してきたのです。なんとも皮肉な話なのですが、世俗の世界が変化するために、それに合わせるようにして永遠で普遍の世界も変わらざるを得ないのです。ですから、例えば聖書の翻訳は何度も時代に合わせて訳され直され、内容が時代に合わせられてきました。
古典文献の注釈や解釈は、法律の解釈に似て、時代や地域の変化に応じて変えられてきました。そんな人間業を許さないのが科学や数学の理論で、その解釈はモデルを作ることと同じであり、モデルは決して勝手な解釈ではありません。その中間にあるのが哲学理論で、プラトンやアリストテレスからデカルト、カントなど、多くの哲学理論はある部分は数学理論と同じように、別の部分は経典解釈のようにモザイク状に解釈が重ねられてきました。テキストをどのように理解するかとテキストについての歴史的な研究の違いとが互いに混じり合って事態を一層複雑にしてきたのです。
テキストの改訳によって何が変わったのかを見定めることはテキストの内容についての私たちの態度を見事に示してくれます。聖書の改訳によって不変なもの、可変なものが明らかになるとすれば、可変なものは些細で枝葉末節のものの筈です。でも、そのように単純に割り切れないのが宗教や倫理のテキストなのです。改訳によって重大な違いが生じたとなれば、旧訳は間違いだと断定されるのです。ですから、改訳は些細なミスの修正でなければならないのです。ところが、そのようにはなっていないのも歴史的な事実です。なんとも奇々怪々なことです。