信念と欲求、あるいは信心と煩悩

 心は信念と欲求からなっているというのが通念で、信念は表象され、欲求は感情や情動として感じられるものです。表象される信念は言語表現である言明に変えられ、その一部は真偽のあるものとして知識を構成することになります。つまり、確証された信念は知識となり、その集合が世界像をつくることになります。つくり上げられた知識は公共的で客観的であるのに対し、心の主観性は実証的でない信念と欲求に起因すると捉えられてきました。信念と欲求は、仏教の場合、信心と煩悩と解釈されるのですが、それでも一部は言語で表現され、感覚や感情の表現として扱われ、時にはそれが芸術の重要な構成要素となってきました。
 心が信念と欲求に方便として二分できるとすれば、ヨーロッパ哲学はもっぱら信念の側面に関心を集中したことになります。それも世界の状態や出来事についての信念にフォーカスすることによって、真なる言明の集まりとして実在する世界を表現しようとしてきました。一方、感覚や欲求は哲学ではなく、主に倫理や道徳として異なる分野として扱われてきました。ところが、その感覚や欲求の部分にもっぱら光を当てたのが釈迦であり、仏教でした。心に対する分析をキリスト教と仏教とで比較すれば、最初からそれだけに関心を寄せたのが仏教でした。ヨーロッパの哲学も仏教も共に心に関心を寄せながら、信念と欲求と言う心の二つの異なる領域に異なる関心を寄せた訳で、当然ながらその結果は大きな違いをもち、それが二つは最初から異なるという解釈を生み出してきたのです。
 これだけでも、哲学と仏教は同根であることがわかると思います。仏教と哲学は驚くほど同じ関心と場所から生まれたのです。しかし、その後の歴史が二つの仲を切り裂いてきました。それは歴史の偏向としか言いようがありません。歴史に学ぶととんでもないことになる一例です。歴史ではなく、二つの主張を素直に置き、論理的に眺めて見るなら、偏見からは見えなかった多くのものが見えてくる筈です。洋の東西を問わず、真理は一つであり、それを隠してきたのは気紛れで、偶然的な歴史なのです。

 学校教育は言葉をもとにテキストを使って行われます。これはプラトンアリストテレスの時代からほぼ変わりません。一方、修行は身体を使った実践であり、それは暗黙知のような仕方で真理を体得、理解することです。この見掛けの違いが歴史的に増幅されてきたようです。

 古代インドには多くの哲人や思想家がいましたが、その年代となると判らない場合がほとんどです。釈迦もその一人で、生没年の説も紀元前463~383年頃、紀元前566~486年頃、紀元前624~544年頃と様々ですが、その生涯が80歳だったことは共通しています。釈迦が誕生した時代や地域は、様々な思想が自由に存在し、混迷した時代でもありました。釈迦の時代には唯物論、運命論、懐疑論、不可知論等が林立していて、その中で生まれたのが釈迦の仏教で、その特徴は自力の修行にありました。
 釈迦が生まれ活動した地域は東北インドで、生まれた場所は現在のネパール領のルンビニーという場所です。母マーヤ(摩耶)が里に帰る途中で産気づき、ルンビニーで生誕しました。釈迦は王子として何不自由のない生活をしていたようですが、その生活を捨てて29歳で出家します。仙人のもとで修行したり、苦行したりしましたが、悟りは得られませんでした。そのような修行を捨て、遂に35歳の12月8日ブッダガヤで悟りを開いたのです。釈迦はその悟りの内容を、かつて一緒に修行した5人の比丘(僧侶)に説きました。この最初の説法(初転法輪)はベナレス郊外にあるサルナートで行われました。
 釈迦様は東北インドで活躍し、マガダ国では迦葉、舎利弗、目連など多数を弟子にし、さらにマガダ国のビンビサーラ王の帰依を受けました。古代インドで強大だったマガダ国の国王の帰依を受けたことは、仏教が確固たる地位を築き、発展する大きな礎となりました。晩年、釈迦はマガダ国から故郷を目指しました。『マハー・パリニッバーナ・スッタンタ』というパーリー語の経典によると、その旅の進路はマガダ国の霊鷲山王舎城を起点に、ガンジス川を渡り、ヴァッジ国を経て、マッラ国のクシナーラーに至るもので、そこの沙羅林で最期を迎えました。
 釈迦は王家の御曹司として何不自由ない生活を捨てて、どうして出家したのでしょうか。釈迦出家の動機については「四門出遊」が伝えられています。それは、出家する前の太子であった頃、東南西北にある四つの城門から郊外に出かけたところ、それぞれ老人・病人・死人・出家者を見かけ、心に深く感じるところあって、出家することに心ひかれたとする伝説です。生まれれば、いつか老い、病気し、死ぬことからは逃れることはできません。いつまでも若くいたくても、病気をしたくなくても、死にたくなくても、それらは思い通りにはなりません。この思い通りにならない苦を超克するために出家し、修行したと推測できます。出家の動機が実践的で、形而上学的なものではないことが、その後の釈迦の修行を方向づけることになったのでしょう。
 釈迦は伝統的なバラモン教の修行をせず、自由な修行者(沙門)となりました。沙門は努力の派生語であり、カースト制度のように生まれが全てを決してしまうバラモン教の考え方に対して、努力によって解脱を得ようとする自由修行者を指します。釈迦はアーラーダ・カーラーマ、ウドラカ・ラーマプトラという仙人について瞑想の修行をし、それを体得しましたが、満足できませんでした。その後、マガダ国の山林に籠って、食事もとらずに難行苦行、肋骨が見えるほどに修行しました。でも、それでも悟りを得られなかったので苦行を捨て、その後、菩提樹の下で瞑想し、遂に悟りを得たのです(どのように悟りを得たかと言う肝心のことは残念ながらマニュアル化されていません)。
 釈迦の教えは「対機説法」と呼ばれています。釈迦は「悟り」に基づき、相手の状況や能力に合わせて、その人に相応しいことを説きました。歴史上の釈迦は仏教教義を体系的に説きませんでした。では、釈迦は何を説いたのでしょうか。これは宗派や学派によって見解の違うところで、どれが本当なのかよくわかりません。釈迦がプラトンアリストテレスのように講義をして、そのノートを残したなら、山のような経典が登場する必要はなかったでしょう。
 釈迦の入滅後1000年以上も後に、距離的にも文化的にも遠い中国で翻訳された漢文経典だけを使って、釈迦の説いた説を考察することには無理があります。しかも、漢訳は直訳ではなく意訳であり、翻訳の底本にしたサンスクリット原典も残っていません。漢文よりもインドの言語で説かれたインドの原典の中でも最古層に属する経典から、釈迦の本来の姿を推測する必要があるでしょう。

 本当に概略に過ぎませんが、釈迦の仏教について用語を説明しておきましょう。
(1)四苦(四苦八苦)
 「苦」の原義は「思い通りにならない」ということです。四苦は「生老病死」の苦しみで、どのような境遇に生まれるか思い通りにならないし、生まれた限りは、老いたくなくてもいつかは老い、病気になりたくなくてもいつかは病気になり、死にたく無くてもいつかは死なねばならない。そんな思い通りにならない苦が四苦です。四苦八苦の「八苦」は四苦(生老病死)に、怨憎会苦(おんぞうえ = 憎い者と会う苦しみ)、愛別離苦(あいべつりく = 愛する者と別れる苦しみ)、求不得苦( ぐふとくく = 求めても得られない苦しみ)、五取蘊苦(ごしゅおんく = 五盛陰苦・五陰盛苦 = 迷いの世界として存在する一切は苦しみ)を指します。
(2)四諦・八正道
 四諦(したい)は釈迦が菩提樹の下で悟りを開いたときに悟った内容です。四諦の「諦」は「あきらめる」という意味だというのは日本だけで、「諦」は真理のこと。四諦は「苦集滅道」という四つの真理を指しています。
 「苦諦」 私たちの生存は生老病死などの苦しみに満ちているという真理
 「集諦」 苦しみの原因は煩悩にあるという真理
 「滅諦」 煩悩を原因とする苦しみを滅した境地が理想だという真理
 「道諦」 そのためには八正道を実践しなければならないという真理
 八正道(はっしょうどう)とは苦を滅するための八つの正しい実践徳目を言います。「正」は完全なという意味です。
(3)三法印
 仏教の特徴をあらわす三つのしるしのこと。
1諸行無常 あらゆるものは変化してやまない
2諸法無我 いかなる存在も不変の本質を有しない
3涅槃寂静 迷妄の消えた悟りの境地は静やかな安らぎである
 諸行無常は、あらゆるものは絶えず変化してやまないことで、『平家物語』の冒頭で有名です。諸法無我は、因縁によって生じたもので実体がないという意味であり、有我説のバラモン教に対して仏教は無我説を主張しました。仏教では、常に同一の状態を保ち、自らを統制できる力をもつ「我」は存在しないと考えます。また、無我は非我(我にあらず)というニュアンスがあります。自分の命も、自分の財産も、すべて自分のもののようであって自分のものでない、因縁に翻弄され、思うようにならない苦しみがつきまといます。涅槃寂静は、仏教の理想の境地のこと。無常であり、無我であるのが、ものの真実の姿で、それを認めないところに苦が生じるということになりますが、そのような迷妄が消えると、静かな安らぎの境地に入ることができ、それが仏教の理想とするところです。
(4)煩悩
 そもそも煩悩とは何か。除夜の鐘は108回で、それが煩悩の数ですが、煩悩の根本は三つあります。それを三毒といい、貪瞋癡です。
貪欲 むさぼること
瞋恚 怒ること
愚癡 無知でおろかなこと
煩悩の原義は苦しむ心で、私たちを悩まし、害し、間違いに導く不善の心が煩悩です。

 釈迦は人生問題の解決に直接役だたない形而上学的問題について質問されても、あえて解答せず、説明もしませんでした。釈迦は他の思想家たちから、世界の常・無常、有限・無限、霊魂と身体との同異、死後の生存の有無など14の形而上学的な質問をされ、討論を要求されても、沈黙を守って解答しませんでした。宗教というと神秘的で不思議なものと思われています。論理的ではないという認識が一般的です。インド土着の宗教であるバラモン教もそうです。ところが、歴史上の釈迦は神秘主義を克服し、論理的に思考することを説きました。残念ながら、その内容は残されていません。
 インドは四姓制度の国。バラモン(司祭者)、クシャトリヤ(王族・武士)、ヴァイシヤ(庶民)、シュードラ(隷民)に大きく分けられた身分制度が古代より現代に至るまで続いている。釈迦はこの四姓制度を自らの教団内に持ち込ませませんでした。
 仏教では因・縁・果・報が説かれます。原因があって、それに間接的に作用する縁があって、結果があり、報いがあります。因縁によってものごとの生起することを縁起と言います。「因縁生起」という言葉を略して縁起と言います。縁起(因縁生起)は一切の現象はすべて因(直接原因)と縁(間接原因)との二つの原因が働いて生ずるとみる仏教独自の教説です。一切の現象はこういった因縁の相互関係の上に成立していますから、固定的実体や不変といったことはあり得ません。「無我」であり「無常」、そして「空」なのです。

 釈迦にプラトンアカデメイアアリストテレスのリュケイオンで講義させたら、一体どのような内容の講義になるでしょうか。ギリシャの学者に対しても遜色のない講義を期待できます。ただ、上述のように徹底して求道者だった釈迦の教えは反形而上学的で、極めて実践的です。世界の規則性にではなく、心の本性のもつ否定的な側面に関心が集中しています。心のもつ適応的な特徴ではなく、心のもつ非適応的な特徴に正面から向き合い、それを克服するマニュアルをつくり、提供しようとしています。釈迦以後の仏教の夥しい経典の数は、実践的な口伝マニュアルの断片しか残さなかった釈迦の考えの理論化、体系化、組織化を表していると考えることもできます。