欲望の適応度:断想

 「煩悩」と言えば浄土真宗がすぐ連想されるが、その根は釈迦以来の仏教そのものにある。煩悩溢れる輪廻の世界から解脱し、悟り、往生するという修行の仕組みの中では「欲求や欲望は煩悩である」という考えが根幹に横たわっている。そもそも欲望が煩悩でないのであれば、釈迦は修行などする必要がなかったのだから。
 だが、一方で「生きる」ことは生き物の本能であり、本能は欲求として発現している。だから、そのために「食べる」、「寝る」といった欲求が具体化され、欲求の連鎖が因果的に続くことになり、すべては生きるための行為の連鎖となっている。
 文脈や環境に応じて欲望が生まれ、消され、また生まれることは自然で当たり前のことなのか、それともそれこそが苦痛なのか。これは大きく意見が分かれるところである。欲望を生み出す装置は生得的であるとしても、具体的な欲望は文脈や環境から独立して存在することはない。仏教が一方的に煩悩として欲望を捉えるのは文脈や環境のためなのかも知れないが、この自虐性は不思議なことにキリスト教でもよく似ている。
 快と不快は共に欲望が絡んでいるが、快をもたらすのが欲望であると同時に、不快をもたらすのも欲望である。煩悩は欲望がもたらす不快であり、欲望は煩悩という不快しかもたらさないというのが釈迦の考えであり、その煩悩から脱するためには、強い意志や欲求がどうしても必要で、それが自力の原始仏教の大筋だった。その後の大乗仏教でも、人の煩悩を否定するためか、欲望のもつ利点について納得できる説明をしていないように思われて仕方ない。
 無力な人がいい人だなどと誰も思わないのだが、その人は確かに煩悩のない人なのである。そこで、欲望の本能と呼ばれる生得的な部分がどのようなもので、それが学習によってどのように具体的な内容を獲得するかの二つに分け、内容部分についての分類と価値判断がなされてきたのがこれまでの私たちの歴史である。生得と獲得の部分は適応の物語をつくる仕方で、進化のシナリオが考案されてきた。そして、欲望の適応度が様々なモデルとして議論されてきた。例えば、ゼロサムゲーム(参加者全員の得点の合計が常にゼロである得点方式のゲーム)のようなゲームを通じて欲望が扱われてきた。
 文化進化と生物進化の融合がここに見られる。欲望は生得的な装置で生み出され、その産物は人為的な規則による分類によって判断される。

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ダリ「欲望の適応」