煩悩(3):煩悩(2)の続き

(以前に「大乗と「空」」というタイトルで書いたものを一部改変したものである。)
 大乗は「大きな乗り物」、小乗は「小さなな乗り物」を意味する。小乗とは大乗仏教徒が原始仏教に対して使った差別用語。そのため、現在では「小乗仏教」のかわりに「部派仏教、上座部仏教」という言葉が使われる。部派仏教徒が自らの仏教を小乗仏教と称したことはない。原始仏教に近い部派仏教は国王、藩候などから経済的な援助を受け、土地を所有していたので、僧院に定住しながら煩瑣な教理研究に専念できた。その結果、学問的な仏教学が構築され、専門的で難解な教理は一般の在家信者からは遊離したものになっていく。こうして部派仏教は修行に専念できる出家のための仏教になり、苦しみ悩む多くの人(=衆生)を救うためではなくなる。それに対し、大乗仏教運動は在家信者をターゲットに定め、人心を捉えることに成功した。
 大乗仏教は、仏教を衆生救済をめざすものへ改革する運動としてスタートする。そのため、大乗仏教では「利他」が強調され、慈悲にあふれた理想としての菩薩(まだ仏の悟りを得ておらず、その悟りに向かって努力している人のこと)が創作された。そして、部派仏教を自己中心的な劣った教えとして強く非難する。では、大乗仏教は本当に部派仏教より優れた教えなのか。両者を比較すると不思議なことに気づく。六波羅蜜は菩薩の実践徳目であるから大乗仏教に固有のはずだが、六波羅蜜は上座部の論書に既に登場している。大乗仏教の中心思想とされる「空」思想の起源も原始仏教大乗仏教の支柱の一つである唯識思想をつくった世親も部派仏教の出家僧だった。彼は部派仏教の教理書『阿毘達磨倶舎論』の著者でもある。そのためか、唯識思想は部派仏教の思想とのつながりが深い。このように大乗仏教の基礎となる考えかたは部派仏教にその起源がある。大乗仏教は部派仏教を全面的に否定し、革新したのではない。大乗仏教は部派仏教の伝統と基礎の上に立ち、これを宗教化したものである。大乗仏教は部派仏教に接木することによって創られた仏教なのである。
大乗仏教の基礎理論は原始仏教のそれと多くの点で似ているが、原始仏教の合理的な「自帰依、法帰依」の教えの中で「自帰依」の教えがスッポリと抜け落ちている。「自帰依」の代わりに「諸仏帰依」に置き換えることによって、宗教化を成し遂げたのである。「自帰依」の宗教であった釈迦の仏教を釈迦の神格化によって、宗教に変えたのが大乗仏教。神に等しい存在となった釈迦を信仰すれば霊界にいる釈迦と直結し、救われるという教えはヒンズー教に似ていて、わかりやすい。部派仏教の煩雑で難解な神学的議論は不要なのである。『法華経』、『華厳経』、『無量寿経』などの大乗経典を読めば、大乗仏教が優れた宗教であることが理解できる。壮大で美しい宗教的世界がこれでもかと繰り返し描かれ、説かれている。宗教に関心をもつ人にはこのような世界は目も眩むばかりに美しく、容易に入り込める。
 大乗仏教思想の柱の一つは「空」思想。「空」は初期大乗経典である『般若経』に説かれている。空の教えは後にナーガールジュナ(龍樹、活躍年代:A.D.150~250頃)によって理論化された。これを中観派仏教、あるいは中観(あるいは空観)仏教と呼ぶ。「空」とは何かがわかれば大乗仏教の基本思想がわかるとまで言われている。
 釈迦の教えの柱は「八聖道」。八聖道の一つが禅定。禅定を実践修行することで仏教の智恵が得られるとされている。禅定は精神集中法で、釈迦自身も出家後に二人の仙人からこの修行法を修得した。この修行法はインドでは古くからヨーガとして知られている。釈迦自身も生涯にわたって禅定を重視し、実践した。だから、多くの仏像は座禅の姿をしている。禅定において達せられる精神集中の状態が三昧(さんまい)。原始仏教で重要視された三昧は空、無想、無願の三つの三昧。この三つの三昧が空三昧に統一される中で「空」思想が生まれた。
 原始仏典には様々な禅定が説かれている。代表的なものは「四禅定」と「四無色定」。座禅では精神の集中状態が深まっていく。四禅定とは禅定を四つの段階に分けて説明したもの。四無色定は色界を越えた無色界の禅定であり、次の四つの精神的境地として表されている。
1空無辺処定(くうむへんしょじょう)
2識無辺処定(しきむへんしょじょう)
3無所有処定(むしょうしょじょう)
4非想非非想処定(ひそうひひそうしょじょう)
この中で2と3の無色定は釈迦が修行時代にアーラーラ仙人の所で得た禅定。3と4の無色定はウッダカ仙人の所で得た禅定である。
 大乗仏教は部派仏教を台木に、接ぎ木として生まれた。もう一つ注目すべき点は「空」という言葉は解脱の境地を表す言葉であること。だが、般若系経典に代表される大乗仏教になると、これが「色即是空」の言葉に代表されるように、「物質的現象(色)も空である」というように拡大解釈されて行く。『中論』における空の定義を見てみよう。般若系の大乗経典の思想を「空」という概念でまとめ、大乗仏教の基本思想を確立したのが龍樹。そのため龍樹は八宗(すべての大乗仏教の宗派を指す)の祖と言われる。「空」とは何かがわかれば大乗仏教の基本思想がわかる。そこで、龍樹の主著である『中論』によって「空」とは何かを考えよう。まずは、龍樹の「空」の定義。
「諸々の因縁から生成されたもの(法)を私は「空」であると説く。なぜなら、諸々の因縁(条件)が具備、和合してはじめてもの(法)は生成される。このもの(法)は因縁によって生成されたのであるから、諸々の因縁から切り離すことはできない。因縁に属すると言ってもよい。因縁自身は一定した性質を持っていないので、自性が無い(無自性である)。自性は無いので「空」である。但し、「空」という言葉で表現するのは衆生を導くためである。諸々の因縁から生成されたもの(法)は有と無の二辺を離れている。故にこれを中道と名付ける。もの(法)は一定した性質を持っていない(無自性)ので有と言うこともできず、また無であるとも言い切れない。もしもの(法)に固定した性質があれば、因縁の助けなしに、生成されるだろう。しかし、すべてのもの(法)は因縁によって生成される。従って「空」でないもの(法)はないのである。」
 龍樹が説く空とは、
1諸々の因縁(条件)によって生じたもの 、
2固定した性質を持たない、無自性なもの 、
である。1は「因縁所生の法」と呼ばれる。龍樹が説く空の概念は極めて論理的で明解。上の現代語訳では「もの(法)」という言葉が使われている。仏教学者は法を存在と訳している。しかし、この法は「受、想、行、識、苦」などの精神的なものが主である。色(物質的なもの)も法の中に入るが、仏教では色(物質的なもの)も精神的なもの、あるいは精神がコントロールできるものと考えていた。このように法を精神的なものに限ることが仏教を理解するキーポイントになる。
 龍樹の「空」の現代的な解釈を試みてみると、その特徴は次のようにまとめられる。
1全てのものは縁起によって生じる 。
2縁起は無自性(それ自体が固定した性質を持っていない)である。
3全てのものは縁起と不可分である。従って、全てのものは空である。
 「縁起」という言葉は今でも「縁起がよい」などと用いられているが、その意味は違う。縁起という言葉の意味はもともと合理的なもの。因果律がはっきり意識されるようになったのはインドや東洋では比較的近年である。科学が進歩し、そのアプローチと考えが受け入れられたのは科学革命以来に過ぎず、縁起や因果という考え方に対し真の理解はなかなか得られなかった。釈迦自身も仏典の中で、縁起を仏教の根本的概念であるが、それを理解するのは難しいと述べている。
 縁起は現代の科学によって解釈できる。縁起とは「原因=縁によって生じる」という意味である。これは因果律と基本的に一致する。因果律は「原因があれば相互作用によって結果が生じる。」ということ。仏教の説く「ものが生じるときの縁起を研究し、明らかにする学問」はさしずめアリストテレス形而上学というところか。縁起や因果は科学には厄介で、苦手な形而上学的な概念である。それゆえ、科学は因果や縁起の概念を論理的な「ならば」によって表現し、数学的に扱うことに工夫を凝らしてきた。科学は「縁起、因果とは何か」と問わず、自然法則として仮定し、原因から生じる結果を予測しようとしたのである。
 「空」の理論と科学理論の違いの有無を調べてみよう。
1対象 
 自然科学は主として物質界(=色界)を対象にする。実際、科学は物質の解明に大きな成果をあげてきた。これに対し、仏教の主な対象は個人の心、精神である。その目的は心のやすらぎによる苦からの解放(解脱)で、物質の解明ではない。もっともらしい説明で成程と思ってしまうが、物質と精神の区別ができなければ、これは違いにはならない。
2現象の根本に対する考え方 
 仏教では全てのものは縁起によって生ずると考える。これは科学と仏教で一致する考え方に見えるが、仏教では現象を起こす根本要素と縁起は無自性であると考える。無自性であると考えるのは無常であることを説明するため。無自性であるからこそ自由に変化でき、それが諸行無常の原因になると考えたのではないか。そのため諸法(現象)は空であると考えた。一方、科学では物質的現象の根本に実体を考える。つまり、物質的現象の背後に原子や素粒子を想定し、それらの粒子の間に働く相互作用によって現象を説明する。これも説得的に見えるが、科学では「実体」は死語で、存在は粒子か波動か議論が絶えない。
3方法論
 科学では理論が正しいかどうかを実験によって客観的に検証する。定量的に厳密な検証実験が要求されることが多い。実験結果を説明できない理論は仮説に過ぎず、事実の着実な積み重ねによって科学的知識が蓄積される。一方、仏教では、このような着実な蓄積がみられない。釈迦、ナーガルジュナ、世親、空海最澄など、偉人たちの言葉を信じて疑わない。聖書やコーランは盲目的に信じられ、それらを疑うことは禁止されている。それらの内容を批判、否定すると異端あるいは異安心として迫害を受けることになる。これは宗教に共通の姿勢である。だが、科学の世界では疑うことが常識。疑うことによって過去の理論は否定され、より普遍的な理論が見出されていく。
 このようにみてくると、科学知識と「空」論の違いは方法論だけということになるが、その違いは決定的なものである。 
 では、龍樹によって説かれた1、2、3の「空」の考えは正しいのだろうか。特に、2の「縁起は無自性(それ自体が固定した性質を持っていない)である。」という部分はどうだろうか。例として、ニュートン万有引力の法則を考えてみよう。質量を持つものの間にはニュートン万有引力の法則が働いている。万有引力の法則は星々の間にも働く普遍的な力。引力は目に見えないが、地球と太陽と月の間に働く力は潮の干満を引き起こす。これは地球と太陽と月の間の縁起(相互作用)である。引力は直接見えないがその縁起によって生じるもの(潮の干満)は実在する。ものは縁起(相互作用)と不可分で、縁起(相互作用)と不可分であるから無自性であると考えると、万有引力の法則は距離の2乗に反比例するという明瞭な性質をもっていることに反する。
 無自性を縁起に対して素直に従う性質だと仮定すると、万有引力の法則と空の思想は矛盾しない。『中論』の漢訳「衆の縁が具足し和合して而して物は生ずるをもて、是の物は衆の因縁に属するが故に自性なく、自性なきが故に空なり」という文はこのように解釈しても意味が通じる。『中論』の別の箇所で、ナーガルジュナは無自性について「もし法に固定不変の性質があれば、変化のしようがないから不生不滅であるだろう。もしそうならばどうして因縁の法にしたがって変化することが出来ようか。従って諸法が因縁に従って生じるとするならば、即ち、自性は無いと考えられよう。この論理から諸法に決定した(固定不変の)性質があれば因縁の理法は成立しない。」
 龍樹によれば、諸法が無自性でないならば、法に固定不変の性質があることになる。そうなれば、法は変化のしようがないので無因無果論に陥ると主張する。これではものは因縁に従って生じるという仏教の根本理法を否定することになる。それゆえ、帰謬法によって無自性ということになる。
 無自性とはものには我(アートマン)のようなものはなく因縁の法則に素直に従って変化すると言っているだけである。諸法無我と同じ考えである。その場合は龍樹の「空」の考えは現代の科学的考えと何ら矛盾しない。だが、それはほとんど何も主張していないゆえに矛盾しないということに過ぎない。
 
 アリストテレスの四原因説(形相因、質料因、機動因、目的因)は縁起論に似ているが、彼の考えに反抗して生まれたのが科学。何が起こるか、どう起こるかを具体的に予測しようとする実証的な科学と「空」の説明とは似て非なるものなのである。