キリスト教の神学がトマス・アクィナスによってまとめられ、アリストテレス風の自然神学の枠組みができ上がるが、それに似て、部派仏教の教義は『俱舎論』によって整備され、さらに唯識論へとまとめられていく。信仰を支える常識、その常識をつくる知識、知識をつくる事実はキリスト教も仏教も基本的に同じである。
大乗仏教の登場によって真理観が変わる。(行動に対する)戒律から(心に対する)愛へと変えたキリスト教に似て、仏教も知識の質を変えることによって変貌を遂げることになる。教義内容についての形而上学的考察や修行指針が、教義の宣伝、説明、解説へと変わっていき、言明の真偽から言明の意味や解釈へとシフトしていく。大乗仏教へのシフトは教義が知識であることから、教義が情報であることへの変化なのである。
「創作される真偽」は形容矛盾の臭いがする。嘘も方便なら、真も方便で、何を信じるかがわからなくなる。どのように信じるかと何を信じるかは大いに異なる。大乗の教えではどのように信じるかは方便で構わないが、何を信じるかも方便では流石にまずい。信じる内容と信じる仕方や方法は独立してはいない。二つ以上の方便があるなら、それらが同じ信念内容を帰結することの証明はあるのだろうか。
小説の中の真偽と世界についての真偽とは何が同じで、何が異なるのか。その違いを巧みに混同させるのが大乗仏教の経典群の役割で、正に衆生を誑かすかのように信仰に導いたのである。小説や物語の中の真偽と現実の真偽とを敢えてミックスさせることによって多くの人を魅了するシナリオができ、それが信者を増やすことに繋がっていく。
大乗仏教
西暦紀元の前後、西方でイエスの愛の宗教が生まれたのと同じ頃、インドでも慈悲を強調する大乗仏教が登場する。当時、部派仏教は学問的、哲学的な傾斜を強めていた。このようなアカデミックな傾向に対抗して仏塔(ストゥーパ)を崇拝する在家信者を中心に熱烈な宗教運動が起こる。彼らの望みは釈迦への信仰による救済だった。釈迦の神秘化、神格化は原始仏教のごく早い時期に始まっていたが、自力主義を主とする原始仏教では、「救済者」という概念は明瞭になっていなかった。
如来は、元来「修行完成者」という意味で、釈迦の異名の一つだった。だが、大乗仏教はこれを「真理に従い衆生を救済するためにこの世に到来した者」と特別に解釈した。そして、原始仏教以来の過去仏の観念が拡大され、無数の仏国土に無数の仏(如来)が存在するという考えが普及し始める。その中でも特に多くの信仰を集めたのは阿弥陀仏、薬師如来である。大乗仏教では、菩薩は「悟りを求める者」と解釈され、自分自身は輪廻の苦しみの世界から解脱し涅槃に到達しようとすればできるのに、他の多くの苦しむ者をみて、あえて輪廻の世界にとどまり、彼らに対して慈しみ憐れむ心を持って救済につとめる「利他行」を行う者という菩薩の理想像が形成された。
*利己主義と利他主義の対比で部派仏教と大乗仏教を区別するのは大乗側からの見方に過ぎない。
利他行を重んずる大乗では修行法でも変化が起きる。八正道は自分だけの安らぎを目指すものとして低くみなされた。それに対し、利他行をふくむ六波羅蜜をより優れたものとして尊重した。六波羅蜜とは、布施(ふせ)・持戒(じかい)・忍辱(にんにく)・精進(しょうじん)・禅定(ぜんじょう)・智慧(ちえ)の六つの徳目を完成させることである。「布施」とは、与えること施すことで、財物を施すこと(財施)、教えを施すこと(法施)、安心を与えること(無畏施)の三種がある。そして、菩薩としての誓願と自覚をもってこれら六つの徳目の完成をめざして行すれば、誰でも仏になることができると説かれた。経典の果たす役割は大きく変わるが、大乗の経典の主なものについてその内容を確認しておこう。
<般若経>
六波羅蜜の中で最も尊重されるのが悟りに至る「智慧の完成」(智慧波羅蜜)である。智慧を音写すれば「般若(はんにゃ)」。この智慧波羅蜜すなわち般若波羅蜜を称揚する一群の経典が、般若経典である。大乗という言葉は、般若経典において初めて用いられた。般若経典の核をなす思想は「空」の思想である。般若経典の中で最も広く親しまれているのが『般若心経』。その中に現れる有名な文句「色即是空、空即是色」は「ものの本質は空であり、空を本質とするものが形あるのとして現れる」ことを主張する。なぜ、彼らはそのようなことを主張するのか。
般若経典の尊重する智慧とは釈迦の智慧である。釈迦はあらゆるものに対する無執着を主張した。あらゆるもののうちには釈迦の教え、すなわち縁起、四諦・八正道、無常・苦・無我、あるいは理想とされる涅槃などの教えも含まれる。したがって、これらの教えにすら心をとめないこと、すなわち「心を空にして落ちつけること」が理想とされる。そして、あらゆるものが「空」であり、「差別する様相がないもの」であり、「願い求めるべきものではないこと」を観ずる禅定こそが解脱への道であるとされた。また、大乗仏教における理想的な行為である菩薩の利他行は、この境地においてはじめて成り立つと考えられた。
*ここで考えたいのはタイトルの「諸行無常」、「色即是空」の真偽である。般若経典の知慧とは知恵、知識、信念、主張と重なるものであり、真偽は背後に隠れ、メッセージやスローガンに近くなっていく。
<維摩経>
般若経典の空の思想を文学的にあらわしたのが『維摩経』。主人公の維摩詰(ゆいまきつ)は在家信者で、出家の仏弟子や菩薩を次々に論破し、小乗の出家主義にたいする大乗の在家主義の優位が示される。世界を空としてみることが菩薩の利他行の根拠となることがあざやかに表現され、生・滅、浄・不浄、善・悪など対立矛盾するものが空に過ぎなく、異なるものではないとする主張(不二の法門)がなされる。この教えを受け入れることが悟りとされるのだが、「不二の教えに入るとはどういうことか」という問いに、諸々の菩薩は様々に答える。これに対して、維摩は沈黙をもって答える。言葉によって説くことは本来空なるものに区別や対立を設けることであり、悟りの智慧が言葉を超越したものであることが主張される。
<華厳経>
大乗仏教では信仰の対象となる釈迦に関する考察が進み、釈迦の現れ方を応身(おうじん)・報身(ほうじん)・法身(ほっしん)の三種に分けて考える三身(さんじん)説が登場する。「応身仏」とは、歴史的に存在した釈迦である。「報身仏」とは、阿弥陀仏、薬師如来など、悟りの果報として現れた永遠の存在である。「法身仏」とは、仏の本体はその教え、すなわち仏法にあるとして、これが人格化されたもの。
『華厳経』では、釈迦が法身である毘廬遮那仏(びるしゃなぶつ)と同化され、あらゆる差別が存在するこの世も、釈迦の成道によって実現した真理の世界(法界、ほっかい)であるとする。小さな塵の粒、一本の毛の穴の中にも無数の仏国土がある(一即一切、一切即一)。衆生が輪廻する三つの領域(欲界・色界・無色界の三界)の存在は、すべて心によって生み出されるという唯心説を説く。全八会からなるが、サンスクリット原典が残っているのは、第六会十地品と最後の入法界品だけである。前者は菩薩の修行が深まる段階を10に分けて説明し、後者は善財童子が教えを求めて53人の様々な人々を訪問する求道の物語である。
<法華経>
『法華経』は『妙法蓮華経』の略で、サンスクリット本は 27の章からなる。各章の成立は年代が異なり、紀元後 50年から 150年にかけて成立した。比喩を巧みに用いて、文学的に大乗仏教の教義を説明している。初期大乗仏典を代表するもので、古来多くの人々から高い評価と信仰を集めてきた。主な内容としては、大乗と小乗の対立を越えたところに統一的な真理があること(一乗妙法、いちじょうみょうほう)、ブッダが永遠不滅の存在であること(久遠本仏、くおんほんぶつ)、苦難を堪え忍び、慈悲の心をもって、利他の行に励むこと(菩薩行道、ぼさつぎょうどう)が述べられている。
大乗仏教は旧来の仏教を小乗仏教と呼んだ。小乗は声聞(しょうもん)と縁覚(えんがく)である。声聞は自己の悟りを得ることに専心する。縁覚あるいは独覚は十二縁起を観察して一人で理法を悟る。彼らは大乗の菩薩のようには慈悲・利他の行を行わない。だが、仏教を声聞、縁覚、菩薩の三つの乗り物に分解して説くのは、煩悩をもつ衆生を救済するための如来たちの巧みな方便である。衆生の救済を誓願した如来たちは、さまざまな方便を説く。例えば、戒・定・慧、塔の建立、仏像の作成、供養、礼拝、念仏、この教えの名を聞くことなどもすべて、衆生が成仏できるように如来の説いた方便であるが、どれを選ぼうと、正しい悟りに到達できると述べられる。悟りに至る方法が方便として様々にあっても、釈迦の乗り物は、ただ一つで、第二、第三の乗り物があるわけではない。
釈迦は入滅したのではない。無限の過去において悟り、それ以来無数の衆生を教え導き、無限の未来においても存在し続ける。しかし、入滅したと説かなければ、衆生たちは如来が常にいると思い、如来への思いが薄れる。そのようなことがないようにするため、方便として「如来の出現はきわめて稀である」と説き、釈迦は入滅したとされるが、これこそ正に方便である。
『法華経』に特徴的なことは、『法華経』そのものへの信仰を説く点にある。例えば、常不軽菩薩品では、この経典を奉ずる人には幸福が訪れ、非難するものには災難がふりかかると説く。法師品や如来神力品では、法華経が受持、あるいは読誦、解説、書写、熟考されたところには塔を立てよという。その場所はすべての如来たちの悟りの座とみられるべきで、まさしくそこで如来たちは最上の正しい悟りをひらき、教えの輪を転じ、完全な涅槃に入ったと知られるべきだからである。いま自分の立つこの箇所が聖なる菩提の座になるという教えは、古来多くの人の心を打った。これも実に巧みな方便である。
随の時代の中国において、智顗(ちぎ、538-597)は、数多くある仏典中で『法華経』を最上に位置づけ、それによって教義の体系を統一し、天台宗を開いた。平安時代に最澄が入唐して天台宗を日本へ伝え、これを広めるため比叡山延暦寺を建立した。以来、この経典が日本に及ぼした影響ははかりしれない。
<無量寿経>
『無量寿経』は、法蔵菩薩が一切の衆生の救済を誓願(本願)し、偉大な菩薩行を行って、如来となる経緯を明らかにする。この如来は、無量の威光があるから、アミターバ(無量光、阿弥陀)と呼ばれ、無量の寿命を有するからアミターユス(無量寿)と呼ばれる。
ついで、阿弥陀仏の西方の仏国土が七宝や黄金に満ち、荘厳な様子が描かれる。この極楽の仏国土に一切の衆生が阿弥陀仏の本願に基づいて行くことができる。そのためには仏の広大な慈悲を信じ念ずれば、臨終のとき多くの比丘の集団にとりかこまれた阿弥陀仏がその前に立つと説く。
阿弥陀仏の仏国土は中国において、「浄土」と呼ばれた。ここから浄土教が生まれ、東アジアに大きな影響を与えた。
*大乗仏教の方便は、真理の意味を変えた。真偽についての対応説が整合説に変わり、しかも物語として脚色され、解釈された真理しか登場しなくなる。これが方便であり、知識の巧みな利用、活用である。救済のために解釈され、利用される実用主義的知識が大乗の経典群である。
*物語の中の真理、物語をつくる真理が混然一体となって経典の方便が巧みに表現される。自力主義では修行のマニュアルである教義が他力主義では物語を使って例示され、情報として伝達される。大乗と部派での真理は、自ら確認できる知識、情報として受け取る知識に分かれていく。