論理学的に考えてみると…

 経済産業審議官の柳瀬唯夫氏のコメントには「 …自分の記憶の限りでは、愛媛県今治市の方にお会いしたことはありません」とある。国会の答弁やこのコメントの「記憶の限りでは…ない」ことについて様々に言われています。小泉進次郎氏もそれに言及していて、それが報じられていました。結局、「私の知る限り、会ったことはない」と「会ったことはない」は同値ではないというのが一般に確認されることで、大抵はそれで終わりです。そこで、論理学を援用してみるとどうなるのか、暇に飽かせて捏ね繰り回してみましょう。
 「自分の記憶の限りでは、愛媛県今治市の方にお会いしたことはありません」の「ありません」には次の二つの意味があります。
(1)会ったという記憶がない。(2)会っていないという記憶がある。
記憶している、憶えている中には、「Aに会った」という記憶がないというのが(1)。これは弱い解釈。記憶している、憶えている中には、「Aに会ったことがない」という記憶があるというのが(2)で、これは強い解釈。
 記号を少々使って、議論を簡単にしましょう。
Aに会う:X、…を憶えている:□(…)とすると(□は様相子などと呼ばれます)、
□(X)∧□(⏋X)は、あることXを憶えていて、かつXでないことも憶えていることを主張していますから、矛盾しています。ですから、それを否定した次のもの、
⏋(□(X)∧□(⏋X))
が定理(いつも真)になります。これを変形すると、□(X)→⏋□(⏋X)になります。この式のXに⏋Xを代入すると、□(⏋X)→⏋□(X)になります。このXに「Aに会っている」を代入すると、「Aに会っていないことを憶えていれば、Aに会ったことを憶えていない」となり、これはいつでも真です。つまり、上の強い解釈から弱い解釈が得られるのです。でも、その言明の逆、つまり、Aに会ったことを憶えていなくても、Aに会っていないことを憶えているとはなりません。
「Aに会っていない」という否定的な事実を憶えているためには、その時に別のBに会っていたとか、病気で寝ていたとかを憶えていて、その記憶が「Aに会っていない」を含意する必要があります。その別の事実をCとすると、C→⏋Xが必要。□Cで、C→⏋Xから□(C→⏋X)が出てくれば、⏋X、つまり「Aに会っていない」が得られます。
 さて、このような捏ね繰り回しから、何が言えるのでしょうか。柳瀬氏と愛媛側の誰かが共に反対のことを主張するなら、(1)の弱い解釈では柳瀬氏は愛媛側の主張に何の反論もできず、あなた方の主張は正しいかも知れないと言わなければなりません。したがって、愛媛側の主張が実証できれば、柳瀬氏は文句を言うことなく受け入れるしかありません。(2)の強い解釈を柳瀬氏が取るなら、その日に面会していたといわれる時間に別の人と別の場所にいたというような、上のCに当たる事実を自ら用意する必要があります。それができれば、柳瀬氏の主張が正しいことになります。そして、そのためには愛媛側の証拠を覆さなければならないのです。