事始め
私たちが世界を知るということは何であり、どのような意味をもつのかを考えようというのがこれからのシリーズの意図である。余計なことを言わずに世界について何が正しいのかを端的に述べてみたい。神話は幻想や奇想が溢れ、想像力によって世界を説明し、征服するかのような印象を与える。それだけなら無害だが、ナイーブなファンタジーが小難しい理屈をもったストーリーに変わる。すると、厄介な問題が噴き出すことになる。そして、それら空想や思想が世界の中の事実に基づいた知識に変わるのが科学革命だった。その後、事実概念は変容し続けることになるが、「事実に基づく世界」が私たちの生活を支えてきたことは変わらない。だから、宗教でも思想でもなく、科学的事実が今の私たちの生活を支えている。
例えば、「ヒメジョオン」と「ハルジオン」の音の響きの微妙な違い、「姫女苑」と「春紫苑」の漢字のもつ意味の違いをしっくり味わい、花と人のつきあいを感じ取るのが常道なのだろうが、どこかつむじを曲げた人はその種の文学的観賞は消費の一形態でしかなく、自然を知ることとは一線を画したものだと思うのではないか。自然を楽しむのは料理を楽しむように資源を消費することであり、自然を知ることはそれとは別物だということである。「豊かな自然」、「美しい都市」は私たちの生活世界の普通の姿なのだが、「美しい原子」、「混乱した宇宙」となると違和感を禁じ得ない。私たちは感情移入を勝手にするせいか、形容過多の世界に慣れ切っている。そこには感情だけでなく、欲求や意志が入り込み、玉石混交の現実世界なるものが生み出され、その行く末を私たち自身が雲の中に隠してしまっている。「孤立」は「独立」や「自立」とは随分と違う。孤立した原子はあるが、原子が自立するには自らの意志をもたなければならない。
自然をどのように理解するかについて過去の人たちの考えを注釈しても、歴史に学ぶことが如何に無駄なことかがわかる。歴史は過去が誤りの歴史に過ぎないことを直接に示してくれる。このような表現に違和感をもつ人が多いだろうが、歴史の中の誤りを学ぶことは正しいことを学ぶことではなく、誤っていたということだけに過ぎない。真なる知識は歴史だけでは全く不十分で、歴史を超える必要がある。その超え方には色々あり、科学は宗教や思想と並んで、そして18世紀以降はそれら以上の強力な方法なのである。
[変化とは何か]
事物の変化に対して敏感なのが私たちの好奇心。その好奇心から出発して、変化の本性を実証的に明らかにするのが科学である。ギリシャ時代以来、自然の変化を明らかにしようと様々な試みがなされ、対立する見解や類似の信念が繰り返し登場し、そして消えていった。変化という概念自体が探求の歴史の中で多様な意味をもち始め、事態は一層錯綜したものとなっていった。
変化は原因がなくても起きるのか。例えば、放射性崩壊には原因があるのか。時間が経過しなくても変化はあるのか。さらには、変化そのものに矛盾はないのか。このような哲学的な問いが変化の周りにひしめき、解答を待っている。変化は何かの違いである。異なるものが存在することによって、私たちは変化を認識する。違いの典型は時間的な違い、空間的な違いである。そして、時間や空間があることによって、変化を無矛盾な過程と考えることが可能になっているように思われる。だが、アリストテレスは変化を時間とは異なると考えた。変化は異なる割合で起こるが、時間の変化は一定である(『自然学』IV, 10)。運動を考えたとき、運動する対象は同じままで、その位置だけが時間的に変化する。同じように、太郎に弟の次郎が生まれたとき、太郎は一人っ子ではなくなる。このような変化はケンブリッジ変化(Cambridge change)と呼ばれてきたもので、太郎の他のものへの外的な関係が変わるだけで、太郎自身に内在する何かが変わるわけではない。一方、人の成長はその人の内部で何かが変化すると考えられている。では、変化には外的なものと内的なものがあるのだろうか。
パルメニデスやゼノンはヘラクレイトスと違って変化そのものを矛盾するものとして否定した。同じように変化や時間を否定したのがマクタガートである。では、ヘラクレイトスのようにすべてはいつも変化しているという考えは誤っているのか。変化は矛盾するゆえに存在することを強く主張したのがヘーゲルだった。彼にとって運動は矛盾それ自体である。
このように変化だけを取り上げてもさまざまな思惑が渦巻いていることがわかるだろう。変化に密接に関連する、「因果性」、「時空」、「運動」といった概念が「変化」をさまざまに変化させてきたことがうかがえる。主に物理学や生物学での変化の理解とその変遷が以後述べられるが、一見すると無関係な事柄が変化の理解という点でつながっていることを忘れないでほしい。
[変化の分析と表現]
科学の基本的な役割は自然の変化を的確に表現し、変化の原因をつきとめ、理解することである。ギリシャ哲学では変化するものと変化しないものに注目することから追求が始まった。変化の典型は運動であり、物理学の歴史は運動変化の表現と理解にあった。生命現象も同じで、そこでの変化は発生や進化として捉えられた。
変化や不変を表現する、理解するときに使われる装置、道具は論理、言語、数学である。これらも科学の歴史を通じて自然と共に考えられ、哲学の研究対象となってきた。変化はその対極に不変的なものをもっている。普遍的で、かつ不変的なものは論理、言語、数学を使って表現され、それら不変的なものを軸にして変化が表現され、考察されてきた。
不変的なものは経験的ではないが、変化するものは経験的である。不変なものが優位を占める哲学は概して理性的、合理的だが、変化するものが優勢な哲学は経験的な場合が多い。また、変化と不変はマクロな世界、ミクロな世界でその理解は異なるし、物理世界と生命世界でも異なっている。変化を測る時間でさえ、不変的なものを優位におくか、変化するものを優位におくかで異なる理解がなされてきた。
まずはギリシャに始まる自然理解、その後の経験の重視、科学の方法等を考えてみよう。そこでの重要な事柄を列挙すれば、次のようになろう。
ギリシャ哲学の自然理解は不変的なものを基礎にした演繹的な説明によるが、この説明方法では原理や公理の正しさは説明されず、直観的な信念に頼ることになる。
ベーコンから始まる帰納的方法に基づく経験科学は変化の正確な測定、記述と表現を可能にしたが、演繹的でないゆえに知識の懐疑論を伴っている。
物理学を中心にした経験科学は演繹と帰納をともに使った知識のシステムであるが、演繹と帰納の調和したシステムではなく、両者の混合となっている。
最初は科学に関する総論部分であるが、そこに登場する概念や事例は次により具体的な形で登場するだろう。したがって、そのの内容を理解した後で、再度最初に登場した概念や事例を考え直し、その正確な意味を理解できるし、読者にもそうしてほしい。
(問)変化するものと変化しないものの間にはどのような違いがあるか調べてみよ。