物語の内容が個別的であることは一般的な内容をもつ理論との大きな違いで、どの物語もあくまで一つの物語なのである。個別性と並ぶ物語のもう一つの重要な特徴は、内容の主題化、そしてそれの問題化にある。
物語を描く、述べる、語ることを通じて、何をどんな風に伝えるかという絶えざる工夫が作者や語り手に生まれ、そこから世界や現象変化、そして人間への関心が叙述を洗練させていく。物語の内容についての評価、批判によって、物語の内容や展開についての検討や議論が生まれ、的確な主題化が進み、主題化された事柄がさらに問題として定式化され、物語を巡る諸問題として扱われるようになるのは極めて自然なことである。物語の内容についてそれを確認し、さらにそれが正しい解釈かどうかの疑問に移り、内容についての疑問、予想、希望等が次々と問題として取り上げられ、活発に議論されることになる。
物語を聞きながら、あるいは読みながら、自分はその内容をわかっているのか、いないのかを問題として意識することは「自己モニタリング」と呼ばれている。自己モニタリングによって物語の内容理解の自己確認が行われ、内容の分析に使われる言語への関心が高まり、そこから哲学が生まれてきた。物語の分析が言語を中心に行われるのではなく、物語の内容が観測や実験によって実証されることが重視されると、哲学ではなく科学(古典力学)が生まれることになる。個別的な物語がもつこのような特徴をまとめると、「自己モニタリングという「介入」から始まる物語内容の問題化」と言えるだろう。物語を聞き、読み、そして語るためには物語の内容を理解していることが確認されていなければならず、それを行う有力な仕方が自己モニタリングである。物語で展開される事柄を聞いている私は何を聞いているかを知っていなければならない。物語の進行を聞き逃した場合、私は物語の展開がわからなくなる。そのわからないことが自分にわかるのは自己モニタリングのお蔭である。
*文章を読んでいる途中で話が分からなくなる、このような経験は誰にでもあるだろう。例えば、推理小説を読んでいて、話の展開が複雑すぎて途中から筋を追えなくなってしまうことがある。また、小難しい哲学の説明などすぐにわからなくなる。このような,「あれ、わからなくなった」、「ここまではわかっている」という、現在進行中の課題に対する理解の自己診断が、「自己モニタリング(self-monitoring)」である。自己モニタリング機能とは行動心理学などの場面で用いられる言葉で、次の特徴をもっている。1 自己と他者の区別を行う機能。2自分の頭の働きと行動を自分で知って調整する能力。3 自分の言動や相手との関係、そのとき置かれている状況などを監視する能力。正確な文章読解において必要不可欠な認知機能の一つと言われている。
統合失調症は、妄想や幻覚、自閉、感情の鈍麻、実行機能の障害など、さまざまな症状を呈する。実際に感覚していないのに何らかの知覚体験をするのが幻覚で、妄想は非合理的かつ訂正不能な思い込みである。「妻が私の命をねらっていて、殺してやると叫んでいる」という場合,前半部分は被害妄想、後半部分は幻聴あるいは幻声という幻覚である。幻聴症状が現れているときにブローカ野と呼ばれる領域が活動している。ブローカ野は私たちが何か発話するときに活動する領域であるから、幻聴というのは何かを聞いているのではなく、自分が発話していることにかかわっていることになる。クリス・フリスは、統合失調症患者の幻聴というのは自己モニタリングができない障害ではないかと考えた。私たちは自分自身の活動をモニタリングすることができ、幻聴はそれが障害を受けた結果ではないかと推測できる。例えば、幻聴があれば、何か自分がネガティブなことを考え、あるいは内言として話をしているのに、自分が発話しているという自覚がないために、自分の声や内言を他人の声として解釈してしまっているのではないかというのが初期の自己モニタリング説である。つまり、幻聴は自分の声を他人の声だと誤って帰属させてしまうことがその原因だということになる。
後にフリスとウォルパートは、統合失調症の症状は自己モニタリング機能の障害として説明できるのではないかと述べた。同じ頃、自己モニタリングという直観的な概念を理論的に精緻にしたのが、認知哲学者のギャラガーだった。そして、統合失調症の少なくとも一部の症状は自己帰属感が弱いために起こるのではないかと主張された。例えば、自分の内言や思考を自分のものと意識できない場合、他人から何か言われていると見做す可能性があり、自分の行為を自分のものと自覚できないと、他人に身体を操られているという妄想につながるのではないかと推測できる。統合失調症の症状は単一の自己という全体的な表象が弱くなり、そこにいわゆる他者性が侵入し、受動的症状と呼ばれているようなものが出現してくるのではないか。
物語から哲学へ関心が移るのは、自己モニタリングによって物語の内容への関心が高まり、述べられている事柄を言語レベルで分析することを中心に考察が行われると哲学的な研究がスタートすることになる。物語られる事柄をそれを述べる表現を通じて分析し、現象から背後の仕組みへと関心を移行させることによって哲学が誕生することになる。人間はなぜ物語ではなく、科学的な理論や技術からスタートしなかったのか。言葉の威力は物語がより発揮しやすいのは確かである。言葉や論理によって世界を知ることがまず人間の関心の的になったのではないか。実験や観察によって知る方がずっと簡単に思えるが、私たち人間は言葉を操り、論証する方が信頼できる仕方だと先に信じたようである。実際、科学革命までの哲学の歴史は言語や論理を主要な分析道具とした哲学研究であり、文献を中心にした思索の蓄積であった。
物語は私たちの日常経験をもとに超常経験を含めてのストーリーからなっている。神話や宗教教義には奇蹟や自然を超えた出来事が数多く登場し、部族や社会の由来や特徴を描き出し、それを共有することによって帰属意識が醸成されてきた。トークンとしての対象、トークンとしての出来事、トークンとしての因果的な経緯が描かれ、登場人物は固有名をもち、特定の場所、特定の時間に行動していた。英雄が登場し、有名な戦いが行われ、大恋愛も大事件も起き、悲劇と喜劇があちこちで演じられた。どれもみな個別のトークンであり、私たちが生身の人間として経験できるものだった。個別の物語であるからこそ私たちはそれに心を奪われ、好きになったり嫌いになったりしながら、自らの人生に役立ててきた。物語が個別的であっても、共通の経験を基盤に相通じるものがあり、容易に一般化ができる部分を多く持っている。そして、それだけでなく、物語の展開は私たちの心を掴み、一喜一憂させるスリリングな成り行き、エキゾティックな冒険談、未知の世界への憧れ等々、私たちの心を動かすに十分なものを物語はもっている。それが証拠に、現在でも小説、演劇、映画は科学と対立するのではなく、協働しながら私たちを刺激している。
物語のもつ威力は物語のあらゆる側面への関心を喚起する。美男美女に眼がいくのに似ている。個別的で独特なストーリーの構成と展開が関心を惹きつけ、そこから物語の内容へ関心が移っていく。これが物語の二つの特徴の結びつきである。物語の面白さが物語の内容分析へと私たちを駆り立てることになったのである。世界や人間の本性、民族や家族の起源、太陽、月、星の天体の説明、神や霊の存在等への私たちの強い関心はさらなる探求を触発することになった。探求の一つは物語の言語的な側面へ、他は物語の意味的な側面へと向かったが、いずれも言語表現を通じて探求されたところにギリシャ時代の特徴があり、それが物語ではなく哲学と呼ばれることになった。世界についての物語は世界が何からできているか、どのような理由でできたかといった問いを容易に生み出す。神話の神々の振舞いや祖先の生き様は人生や社会についての問いを誘発する。現象変化と不変の規則性はいずれがより根本的かという問いにつながるし、多様な物質の存在はそれを構成する基本は何かという問いに結びつく。
物語が問いを生み出したことは否めないが、それが科学に直結せず、哲学を育んだのはギリシャの特殊事情があったのだろうか。それは地域的な特殊事情と考えるより、哲学が科学をその一部に含むもので、当初は科学への途にもつながり得たが、エレア派以降のギリシャ哲学の動向が科学化を排除することになったのではないか。プラトンやアリストテレスの哲学はその排除を揺るぎないものにしたと言ってもよいだろう。数学が好きだったと言われるプラトンは数学者ではなかったし、アリストテレスは一流の生物学者だったかも知れないが、自らの著作の中で数学を活用することはなかった。彼の自然学に数学は登場しない。そのため、物理量といった概念は望むべくもなく、数学が登場するガリレオまで待たなければならなかった。