人が科学的に知る真偽と人が捏造する真偽とは意外に区別が難しく、昨日述べたのもそのような例でした。
(1)飲んでいた薬が急に見えなくなった。入れておいた筈の場所には何もない。きっと誰かが隠したか、捨てたに違いない。この家には私と夫しかいない。夫は意地悪だ。だから、夫が隠したか、捨てるかして、私を虐めたに違いない。これは夫の陰謀である。それに対して私は戦わねばならない。夫に問い質す必要がある。
(2)薬が無くなり、入れておいた筈の場所には何もない。2週間も使っていなかったので、その間に保管場所を移したのかも知れない。部屋中を丁寧に探してみたが、見つからない。夫が冷蔵庫を閉めた音がする。その音がトリガーになって、「冷蔵庫」が思い出され、すぐ中を確認。すると、なくなったと思った薬が見つかる。
科学的な真理は人が知るものであっても、勝手に捏造されたものではありません。信じることと知ることが区別できないと、物語と事実の区別ができなくなります。陰謀も伝説も物語ですが、これは物語の異なる側面を見事に示しています。物語は私たちには諸刃の剣で、陰謀、思想、イデオロギーは真理を主張する一方、虚偽や嘘も生み出します。人と独立した真偽と人が意図的につくる真偽との間には大きな溝があります。信じることが即知ることであるような世界は陰謀が溢れる世界で、そこには人の悪意が満ちています。
見つからない薬に対処する方法は(1)と(2)では随分違います。誰かの陰謀によって隠された薬と、どこに置いたか忘れてしまった薬との違いは何を意味しているのか、とても謎めいていて、そこに世界、知識、意識が三つ巴に絡み合って争っているように思えてならないのです。
・人の意図から独立した真偽、人が意図的につくる真偽
・信じる≠知る、信じる=知る
・人から独立した客観的な事実、人が信じる事実
・知るための物語、行為するための物語
それぞれの対の違いから、善意の伝説や伝承、説話や昔話が生まれ、悪意の陰謀物語がつくられ、それらが混じり合って過去が醸成され、それが現在を解釈し、未来を予測するために使われています。ですから、上のように一応の区別をしたとしても、良き伝説と悪だくみの区別は曖昧としたままなのです。