Common Sense:論理と信念

(論理)

 「論理、Logic」という言葉は日常よく使われます。それらが使われると、何かとても硬派の感じがして、難しい理屈の話だという印象を与えるようです。実は、その日常的な使い方のほとんどは論理学を知っている人にはとても奇妙で、苦言を呈したくなる使い方なのです。「彼の論理がわからない」、「彼女のロジックは間違っている」といった表現が何か奇異だと感じても、間違っていると断定する人は少ない筈です。彼の論理も彼女のロジックも、そして当然私の論理も皆同じです。そうでなければ、私たちはプラトンデカルトの思想も、外国人の感情も、ロボットの振舞いも正しく理解することができません。同じ論理をもっているからこそ、時と場所、民族を越えて私たちは意思疎通ができるのです。矛盾に陥ることなく考え、表現し、話すための基本的な規則が論理であり、彼も彼女も私も、そしてコンピューターも、皆同じ論理の規則を使っているのです。

 英語やドイツ語の文法と日本語の文法は違います。文法は今風には統語論(syntax)と呼ばれ、英語や日本語の文をつくる規則の集まりのことです。当然ながら、英語の文法と日本語の文法は異なります。ですから、日本語を母語にする私たちは英語やドイツ語を学ぶとき、日本語とは異なる文法を学ぶことになります。日本語や英語は「自然言語(natural language)」と呼ばれますが、どのように異なる自然言語であれ、その背後にある論理は共通で、それゆえ普遍的です。「文法は言語の規則、論理は思考の規則」と対照的に言われ、文法は言語毎に異なりますが、論理は言語が異なっても変わらず、一つだけなのです。

 「Aであって、Aでない」ことが矛盾しているというような形式的な規則は、文の内容をすべて捨象したもので、ほぼ無意味で、それが「論理学は無用」というような評価の心理的な原因になっていました。特定の内容にこだわらないこと、時代や人、言語の違いを越えて成り立つこと、それを表現すれば一般的な「形式」ということになり、その形式が論理の規則と呼ばれることになります。ですから、論理の規則の集まり、つまり論理システムは必ず無味乾燥ということになります。でも、だからこそ、論理は有用なのです。

 私たちは論理の規則を無意識に使っています。日本語の文法など意識しないで流暢に会話を楽しむことができるように、論理の規則など意識しないで縦横に考えることができます。それは自分の歩き方を説明できなくても、きちんと歩くことができるのと似ています。その論理規則を意識化すると、自ずと記号を使って形式化し、数学化することになります。数学的な形式化がなされると、論理システムの特徴を客観的に調べることができ、プログラム化して応用することが可能になります。そして、そうすることによって最初にわかったことと言えば、思考という人間だけがもつ崇高な能力(「人間は理性的な動物」)と思われてきたものが、実は簡単な代数的演算の組み合わせに過ぎないということでした。

 論理学を学ぶことによって思考能力が向上することは残念ながらありません。日本語の文法を学んで良質の文学作品を生み出せるわけではないのと同じです。でも、文がどのようにつくられるか、思考がどのようになされるかの仕組みはわかります。そして、論理や日本語を自ら操り、日本人と同じように考え、表現し、振る舞うことができるヒューマノイドをつくることができるのです。

(信念)

 信念(信条、belief)という言葉は日常世界ではしばしば過大に評価されているようです。政治家が「この政策の実現は私の政治的な信念です」と訴えると、何かそれだけでその政治家の評価が高まるような効果をもっています。科学者が自分の実験結果を問い質され、「それは私の信条です」と答えたら、「科学は信条でも心情でもない」と反発して、誰もその科学者を信じないのではないでしょうか。

 経験主義的な伝統によれば、知識(知ること、knowledge, know)とは「正当化された真なる信念」と定義されてきました。私たちが知識と呼んできたものは、信念に「正当化(justification)」と「真理(truth)」が加わったものと考えられてきたのです。この知識の定義は近年疑われ出しているのですが、知識と信念の間に横たわる距離はやはり認められたままで、知識に比べると信念は信用できない、劣ったものと理解されています。

 「信念は個人的な意識内容であり、公共的な知識ではない」という特徴づけが誤っているわけではないのですが、それを別の視点からとらえ直してみましょう。「I think that A」が「Aを信じる私の信念、信条」です。Aが真であるかどうかは誰かがそれを信じることと同じではありません。Aの真偽に関係なく私はAを信じることができます。明白に嘘であっても、その嘘を信じることが私にはできます。このような意味で、信じることは自由なのです。ですから、私たちは思想も宗教も自由に信じることができます。選択の自由が信念にありますから、選ばれた信念や信条に基づいて宣伝や折伏が行われ、徒党を組むことができるのです。

 さらに、信念や信条は夢、希望、願望等につながっています。プラン、計画、設計の推進や阻止も真理の場合には原理的にあり得ないことです。真理かどうかを確かめるためのプランや計画を練るのが科学者であり、まだ真理かどうかわからない事柄に賭けることはむしろ日常茶飯事のことです。それが勝負、ゲーム、ギャンブルとなると、真偽がわからない事柄を積極的に利用することになります。ディープインパクトが勝つかどうかわからなくても、勝つと信じて賭けたことを想い出す人が多いはずです。予測できないことを逆手にとって人生を楽しみむことに巧みに転用するのが人間で、「信念」をもつという人間の特徴が同じ人間によって使われてきたのです。

 恋や友情も事業の成功や失敗と並んで、あらかじめ結果がわかっているものではありません。わかっていたら人生はつまらないものになってしまいます。一寸先は闇であるからこそ、信念に基づく行動が未来を創り出すことになっているのです。確実な未来がわからないということを巧みに転用して、それが夢の実現だという風に捉えて私たちは生きているのです。

 経験科学の知識は暫定的で、反証される可能性をもつというポパー(K. Popper)の考えは、経験的な真偽は常に暫定的という主張であり、これを認めるなら私たちが住む世界の真偽は名札のようなもので、真偽の不明なものこそ未来を決める要になっていることがわかるでしょう。このように見てくると、最初の政治家の政治的信念はレトリックではなく、闇を切り拓く先頭に立つという意気込みの表明だと信じることができます。

 結局、真偽が不明なものでも、それを信念としてもち、さらにそれを夢や希望に変えてしまうという心理的な芸当をいとも簡単にやってのけるのが私たち人間だということに落ち着くのですが、それが何を意味しているかと言えば、人間は怖い生き物だということです。