今起こっているアマゾンの森林火災は巨神兵の破壊力を想起させ、「風の谷のナウシカ」の腐海の姿が浮かび上がってきます。私は映画の「風の谷のナウシカ」が好きなのですが、改めて何が好きなのか問われると、少女ナウシカの素直な性格、環境破壊への警鐘、生き物の間の共感、そして何より画像の詩的な美しさなどが浮かび上がってきます。地球温暖化、異常気象、生物多様性等が人の欲望と混じり合って引き起こす問題に立ち向かうナウシカの健気な振舞いは、人の欲望を越えた聖なる志をもつかのようにさえ思えてきます。「よい子、つよい子、できる子」をそのまま実現したような(環境破壊に立ち向かう騎士である)少女が映画のナウシカとダブるのです。
一方、原作の漫画「風の谷のナウシカ」は映画を遥かに超えるスケールと長さをもつ長編作品で、人の欲望や情念が戦いを通じて克明に描かれ、終にはペシミスティックな希望なき結末を迎えることになります。映画には子供の夢や希望が溢れているのに対し、原作漫画は大人の現実社会の戦いと悲劇が様々に描かれ、「誰もいなくなる」終末が訪れるのです。この夢なき原作漫画の世界は何を伝えようとしているのでしょうか。
産業革命から1,000年を経て、科学技術を駆使して巨神兵が作られ、それによる戦争で世界が焼き尽くされる。この巨神兵による戦争が「炎の7日間」。ナウシカたちが生きているのは、その戦争からさらに1,000年後の世界。ナウシカたちには巨神兵や「炎の7日間」は既に伝説。その巨神兵は一体だけ残存し、トルメキア軍がそれを所有。別の重要な大道具は「腐海の森」。ナウシカたちの住む世界で最も多くの場所を占めるのが「腐海の森」。「瘴気」と呼ばれる毒が充満し、そのため、人はそこで生活できず、残りの僅かな土地をめぐり、トルメキアと土鬼が戦う。
さて、「風の谷のナウシカ」を語る上で欠かせない存在が、王蟲(オーム)。体長80mにもなる巨大蟲で、大群で突き進む姿は強烈。正に腐海の森の王。普段は腐海の森の中で、群れをつくって暮らし、慈愛や悲しみといった感情をもつ。14個の大きな眼は普通青い色だが、怒りにかられると真っ赤に変わる。また、一匹の王蟲を傷つけただけでも、大群で仲間を助けるほど共同体意識が強い。人が互いに殺し合う生き物であるのに反し、他の生き物にも憐憫の情をもつ優しい性格の王蟲。戦いを嫌うナウシカは人間よりも王蟲に共感する。また、その存在は、全体で一つの生き物であり、その意識は時空や空間を越えてつながっていて、個であり全体であるという存在。だから、彼らはテレパシーが使え、それを使えるナウシカと彼らは意思を通わせていた。この王蟲の本当の役割が明かされるのは、漫画の最終巻。実は彼らは旧人類によってつくられた人工生命。彼らは旧人類が世界の浄化システムとしてつくった腐海の森をガードする存在だった。確かに、ガードマンであれば、上記のオームの不可解な特徴もわかるというものである。
ガードマンの特性を持つ王蟲も含めて、すべてが旧人類のつくった人工物、これが原作の衝撃的な設定で、ナウシカをはじめ人類も人工物である。ナウシカがその事実を知ったのは、巨神兵と共に「墓所」へと向かう途中で、破壊された街に降り、外からは見えない何かに守られた、緑あふれる「庭」に迷い込んだ時。そこには草木や動物が平安に暮らしており、それを管理していた人と腐海の森の人であるセルムのテレパシーによって、人類が人工人間であるという事実が明かされる。旧人類は世界を浄化させるために腐海の森をつくり、今生きている生き物も汚染された世界に旧人類によってつくられた。腐海の森の果てにある清浄な世界に行った人は血を吐き死んでしまう。つまり、腐海の森がなくなって浄化した世界が実現したとき、今いる生き物はみな死に絶える。ナウシカはそれでも現存の人間を救いたいと考えるが、「庭」の主はそれはこれまで何度もくり返されてきたことだと話す。それを聞いて、ナウシカは「庭」の平安を拒否し、「墓所」へ向かう。世界を滅ぼしてしまう可能性も考慮しながら、それでもナウシカが選んだのは、「庭」の平和ではなく、大気が汚染され、戦いの絶えない世界だった。「墓所」には、浄化された世界で生きていく闘争本能のない「新人類」の卵が保存されていた。争いと破壊を繰り返してきた旧人類が、争いが起きないように作り上げた新しい命である。ナウシカは旧人類の計画を崩す選択をする。
映画で無垢な少女として登場したナウシカは、戦争を経験して無垢でなくなると同時に、人間の暗い闇を象徴するキャラクターとして描かれていく。闇や虚無を孕んだ彼女が世界を動かすような選択をするとき、そこには人間の愚かさを露呈するような役割を果たす彼女の姿があった。巨神兵が土鬼軍に奪われた時、ナウシカは偶然にもその巨神兵に遭遇する。そして、彼女が持っていた秘石に反応して巨神兵は動き出すと共に、彼女を「母」と認識する。ナウシカはその巨神兵を「我が子」として、「オーマ」と名付ける。母であるナウシカの心を知ったオーマは、彼女を置いて先に「墓所」へと向かい、破壊しようと試みるが、「墓所」から攻撃を受け、ナウシカに看取られ死ぬ。オーマが破壊しようとした「墓所」は旧人類の遺した知識の結晶であり、知の宝庫。ナウシカは「墓所」と保存されていた新人類の卵を破壊する。
腐海の森がいつか世界を浄化させた後、現在生きている生命は死に絶えてしまう。「墓所」がなければ、清浄な世界で生きる生物を蘇生させることができず、生物は地球上から一切いなくなってしまう。だが、ナウシカは、旧人類が計画したその浄化計画は、生命を守ろうとしながらも、生命への侮辱だと否定する。旧人類が望んだのが平和で光溢れる世界だとすれば、ナウシカが選んだのは、常に滅亡を孕んだ戦争だらけの世界。その後、トルメキアはクシャナが王となり、土鬼との戦争は終わる。戦争が終わり、平穏になるが、その結果、命が生き延びる道はナウシカによって完全に絶たれ、物語は終わる。
原作漫画の内容は幻想物語。SFではなく、ペシミスティックなファンタジーであり、ナウシカは生命とその可能性を破壊し尽す女性。旧人類の試みはすべて否定され、生命のない清浄な世界だけが残り、生命のない世界が続くとなれば、この物語は一体何を主張したかったのかわからなくなる。となれば、不快でも腐海を残さなければならなくなる。腐海が残る限り、ナウシカの子孫も生存できるのだから。原作のシナリオをそのまま素直に受け入れる人は少ないだろう。そのような不満、不平を挙げてみよう。
・旧人類が未来をシステムとして実現でき、コントロールできるのであれば、どうして火の7日間を避けることができなかったのか。火の7日間以外のシナリオはなかったのか。旧人類の賢さと愚かさの区別は一体どこにあったのか。
・旧人類が望むのは欲望をもたず、争わない新人類だが、それは生き物の定義に合わない。「生きる」という欲望をもつものが生き物である。つまり、欲望のない人間は(生きた)人間ではない。このような原理的な事柄をなぜ賢い旧人類は無視したのか。
・ナウシカたちのように地球の浄化が済むまでの暫定的な生き物はどうしてわざわざつくられたのか。どのような意図があったのかわからない。さらに、それらはどうして暫定的でなければならないのか。清浄な空気に次第に適応していく旧人類がいるという方が進化生物学に合致する。腐海の森に生き物がいなければ、オームも必要なく、戦争も起こらず、静かに浄化が終了するのを待てばいいだけではないのか。賢い旧人類のすることではないだろう。
・旧人類の未来シナリオは現在の私たちの科学知識と両立するだろうか。現在のAI活用とは随分と異なる仕方で未来が予測されているようなのだが、旧人類の予測の賢さは伝わってこない。
映画の「風の谷のナウシカ」については上記のような疑問を誰ももたない。地上の環境が破壊された中で一心不乱に生きるナウシカの生き様が見事過ぎて、彼女を取り巻く環境世界がとても曖昧で、不明瞭であっても、誰も気にしないし、気にならないのである。だが、漫画の「風の谷のナウシカ」となると、そうはいかない。原作の「風の谷のナウシカ」の主張は一体何だったのか。誰もが気になるのである。上の4つの不平、不満をナウシカが強く実感し、旧人類のシナリオは偽物だと彼女が直観的に悟ったと想像してみよう。その結果、彼女が選択した行為が墓所と新人類の卵の破壊だった。このように考えるならば、原作は辻褄が合うことになる。旧人類による未来シナリオは誤りであり、それを被造物であるナウシカが悟り、その誤りを正した、このように考えると原作の主張も筋が通る。だが、その結果、どこにも夢の未来は用意されていないことになる。だから、ナウシカたちが自分たちで見つけなければならないことになる。だが、それを実行するためには映画のナウシカの方がずっと適しているように思えて仕方ないのである。経験豊富なナウシカと夢と希望に満ちたナウシカはいずれが未知の未来に立ち向かうのに適しているだろうか。